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|GDP値 = 3,251億<ref name="imf201404" />
|GDP/人 = 2,080<ref name="imf201404" />
|建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 承認
|建国年月日 = [[パキスタン]]より<br />[[1971年]][[3月26日]]<br />[[1971年]][[12月16日]]
|通貨 = [[タカ (通貨)|タカ]]
|通貨コード = BDT
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[[1971年]]に[[パキスタン]]から独立。バングラデシュはベンガル語で「[[ベンガル人]]の国」を意味する。[[都市国家]]を除くと世界で最も[[人口密度]]が高い国で、人口数は世界第7位。
 
[[ベンガル湾]]に注ぐ大河[[ガンジス川]]を有する。豊富な水資源から米やジュートの生産に適し、かつて「'''黄金のベンガル'''」と称された豊かな地域であったが<ref>ムガル帝国の時代には経済的に一番豊かな州の一つであり、植民地支配期にはインドで最も早く西欧文化の影響を受け西欧化・近代化の先頭に立っていた地域である。(中里成章「新しい国の古い歴史」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章【第2版】』明石書店 2009年 20ページ)</ref>、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する<ref>農村の国であり、2000年の統計では全人口の75%75%が農村で暮らしている。(長畑誠「農村の貧困問題」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章【第2版】』明石書店 2009年 222ページ)</ref>。近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。
 
== 国名 ==
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|title = バングラで多国間PKO演習 自衛隊から4人が参加
|publisher = [[朝雲新聞]]
|date = 2012-202-909
|accessdate = 2012-202-909
}}</ref><ref>{{Cite news
|url = http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140906-OYT1T50124.html
|title = 非常任理事国の選挙、日本を支持…バングラ首相
|publisher = [[読売新聞]]
|date = 2014-909-606
|accessdate = 2014-909-707
}}</ref><ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000020589.pdf 国連安保理非常任理事国選挙 我が国の過去の選挙結果](外務省)</ref>。
 
[[バングラデシュの国旗]]は赤が昇る太陽、緑が豊かな大地を表す。豊かな自然を表す緑の地に独立のために流した血を示す赤い丸、という説もある。赤丸は真ん中から旗竿寄りにしてある。
初代バングラデシュ大統領[[ムジブル・ラフマン]]の娘の[[シェイク・ハシナ]]首相は、「父は日本の日の丸を参考にした。」と証言している<ref>{{cite news |title=バングラデシュ首相:日の丸参考に国旗…親日アピール |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2014-505-27 |url=http://mainichi.jp/select/news/20140528k0000m030031000c.html |accessdate=2014-505-29|author=清水憲司}}</ref>。
 
== 歴史 ==
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[[15世紀]]末には[[ヨーロッパ]]の貿易商人が訪れるようになり、[[18世紀]]末に[[イギリス]]の[[イギリス東インド会社|東インド会社]]により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド全域に拡大した。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な[[飢饉]]に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物やコメの輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された<ref>臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明ほか 28-29ページ</ref>。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。
 
やがて[[インド]]の他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を意図し、1905年に[[ベンガル分割令]]を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割した。1906年ダカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会でベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万~300〜300万人の死者を出した<ref>中里成章「新しい国の古い歴史」(参考文献『バングラデシュを知るための60章』[第2版]22ページ</ref>。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。
 
=== インド領東ベンガル ===
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[[2006年]]10月、軍の圧力で[[カレダ・ジア]]率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。[[2007年]]1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。[[イアジュディン・アハメド]][[大統領]]は、[[非常事態宣言]]を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。[http://www.janjan.jp/world/0704/0704244403/1.php]
 
[[2008年]]12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、[[シェイフ・ハシナ]]元首相の率いる[[アワミ連盟]]が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した[http://bdnews24.com/details.php?id=72656&cid=30]。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%87%の高率。
 
== 政治 ==
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[[議会]]は、[[一院制]]で、''Jatiya Sangsad''([[国会 (バングラデシュ)|国会]])と呼ばれる。全300議席。任期5年で[[小選挙区制]]選挙によって選出される。また、立法に女性の意見を反映させるため、正規の300議席とは別に、女性専用の30議席が用意されていたが、2001年5月に廃止された。
 
民主化後、総選挙ごとに政権が変わるが、選挙による政権交代が定着してきている<ref>BNP=1991~19961991〜1996年、AL=1996~20011996〜2001年、BNP=2001~20062001〜2006年</ref>。とはいえ、議会政治を担う政党に問題が多い<ref>佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/ 大島正明ほか 41ページ</ref>。選挙はおおむね公正なものとされるが、政党や政治風土には問題が多い。各政党は配下に政治組織を持ち<ref>暴力団や学生組織(BNP系の民族主義学生等:JCD、アワミ連盟系のバングラデシュ学生連盟:BCL、イスラーム党系のイスラーム学生戦線:JCS)佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/ 大島正明ほか 43ページ</ref>、選挙ごとに彼らを動員して選挙を繰り広げる。選挙終了後、敗北した政党はストや抗議行動に訴えることがほとんどで、しばしば暴動へと発展する。
 
{{See also|バングラデシュの政党}}
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南部の一部を除き大部分の国境を接する[[インド]]とは、独立戦争時の経緯や独立時の与党アワミ連盟が親インド政党だったこともあり独立当初は友好的な関係だったが、もともと[[ムスリム]]と[[ヒンドゥー教徒]]の対立がパキスタンへの編入を促した事情もあり、やがて関係は冷却化した。[[バングラデシュ民族主義党]]はやや反インド的な姿勢をとり、逆に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[中華人民共和国|中国]]との友好関係を重視する傾向がある。
 
近年は中国の存在感が強まっており、中国からの輸出額は7年で4.5倍に増えた。インフラ整備の面でもバングラデシュ最大の港湾都市[[チッタゴン]]から首都ダッカに通じる幹線道路の拡幅工事は中国の支援の下、全長190キロの工事区間のうち70パーセントを中国企業が請け負っている。その他、発電所の建設や橋の整備等官民あげてバングラデシュへの関与を強めている。<ref>NHKBS1「ワールドWaveトゥナイト」 2011年11月18日放送</ref>
 
バングラデシュは多くの[[難民]]を受け入れ、また送り出す国である。東パキスタンとして独立した時には両国内の非主流派の信徒がお互いに難民として流れ込み、またバングラデシュ独立時にもパキスタン軍の侵攻を逃れて100万人近いバングラデシュ人が難民となってインド領へと流れ込んだ。また、チッタゴン丘陵地帯では政治的緊張が続いており、この地域の仏教系先住民がインドへと多く難民として流出している。一方で、バングラデシュは南の[[ミャンマー]]からムスリムの[[ロヒンギャ|ロヒンギャ人]]難民を多く受け入れている。
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| caption2 = バングラデシュの地図。
}}
バングラデシュの国土の大部分は[[インド亜大陸]]の[[ベンガル湾]]沿いに形成された[[三角州|デルタ地帯]]である<ref>ベンガルデルタとは、ガンジス(ポッダ)川、ブラフマプトラ(ジョムナ)川、メグナ川の3大河川の堆積作用によってできた大地である。</ref>。このデルタ地帯を大小の河川やカールと呼ばれる水路が網の目のように走っている。沼沢地と[[ジャングル]]の多い低地<ref>ベンガル低地、東西約400キロ、南北約560キロの広がり、標高は北部で40~5040〜50メートル、南部で2~32〜3メートル、洪積台地と沖積低地に大きく分けられ、台地は中央部や北西部に広がっている、首都ダカは台地の南端に位置する。台地と低地の高低差はおよそ10メートル以下である。畑作が中心で、水田は浅い谷部分に分布する。(大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 44~4544〜45ページ)</ref>であり、ジャングルは[[トラ|ベンガルトラ]]の生息地として知られる。北をヒマラヤ山脈南麓部、シロン高原(メガラヤ台地)、東をトリプラ丘陵やチッタゴン丘陵、西をラジュモホル丘陵に囲まれ、南はベンガル湾に面している<ref>大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 44ページ</ref>。東部や東南部に標高100~500100〜500メートルの丘陵が広がる。
 
[[ヒマラヤ山脈]]に水源を持つ西から[[ガンジス川]](ベンガル語でポッダ川)、北から[[ブラマプトラ川]](同ジョムナ川)が低地のほぼ中央で合流し、最下流で[[:en:Meghna_River|メグナ川]]と合流して、流域面積173万平方キロメートルものデルタ地帯を作っている。デルタ地帯はきわめて[[人口密度]]が高い。バングラデシュの[[土壌]]は肥沃で水に恵まれることから[[水田]]耕作に適しているが、[[洪水]]と[[旱魃]]の双方に対して脆弱であり、しばしば[[河川]]が氾濫し多くの被害を及ぼす。国内の丘陵地は南東部の[[チッタゴン丘陵地帯]](最高地点:[[:en:Keokradong|ケオクラドン山]]、1230m)と北東部の[[シレット管区]]に限られる。
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[[File:Agriculture of Bangladesh 11.jpg|thumb|left|水田]]
 
人口の62%は[[農業]]に従事し、国民の7割以上が[[農村]]に住む。主要農産品は[[米|コメ]]およびジュート([[コウマ]]・[[シマツナソ]])である。コメの生産量は世界第4位で、かつ生産量も年々微増している。国連食糧農業機関(FAO)によると穀物自給率は90%90%を超え、特に米に関しては消費量のほぼ全てを自給している。
 
バングラデシュの稲は雨季前半に栽培されるアウス稲、雨季後半に栽培され収穫の中心となっているアマン稲、乾季に栽培されるボロ稲の3種に分かれる。気候的に[[二期作]]や三期作も可能であるが、乾期にはガンジス川の水位が低下するため、行える地域は限られていた。しかし、井戸の普及や改良種の普及により、特に乾季のボロ稲の農業生産が大幅に拡大し、それにつれてアウス稲やアマン稲の生産も増加を示した。それによって、[[二期作]]や三期作の可能な地域も増加して米の生産量が大幅に増大した<ref>大橋正明、村山真弓編著、2003年8月8日初版第1刷、『バングラデシュを知るための60章』p40-41、明石書店 </ref>。これがバングラデシュにおける「[[緑の革命]]」といわれる農業生産の近代化促進である。緑の革命は国家政策として行われたが、緑の革命は農家の設備投資支出の増大を強いた。一方で生産量増大はその負担を埋めるまでにいたらないという問題を抱えている。
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=== 鉱業 ===
バングラデシュは[[鉱物]]資源に恵まれない。唯一ともいえる資源が[[天然ガス]]である。1908年に発見される。その後英国統治時代にも開発が続けられ、独立以後は外国資本による生産分与方式(PS方式)で進められた。政府は1970年代より天然ガス資源の探査、生産を推進し、1984年のバクラバードガス田(チッタゴン)操業開始をはじめ、17の[[ガス田]]を開発した。1997年には全国を23鉱区に分け、企業入札が実施された。2003年時点の採掘量は435千兆ジュール。現在(2008年)12のガス田、53の井戸から日量13億立方フィートの生産可能となっている。ガス田はジャムナ川より東側に分布しており、パイプラインで輸送されている。現在ボグラ市まで達している。埋蔵量(『オイル・アンド・ガス・ジャーナル』2002年4月の記事)は、生産中及び確認・確定埋蔵量は、28.8兆立方フィート。アジア地域では、マレーシア80兆、インドネシア72兆に次ぐ埋蔵量。埋蔵量については種々の試算方式があり、それぞれに大きな開きがある。ガスの消費は、発電で約50%50%、約40%40%が工場で、約10%10%が個人世帯・商業で利用されている。ガス管敷設距離の延長に伴い個人用消費が伸び、最近の10年間で年率10%10%を超えている<ref>松澤猛男「天然ガスと電力」/大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 133-134ページ</ref>。
 
=== 通貨 ===
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{{main|バングラデシュの住民|:en:Demographics of Bangladesh}}
 
バングラデシュは、[[シンガポール]]や[[バーレーン]]などの面積の小さい国を除くと世界で最も人口密度の高い国である。1平方キロメートル<!--&nbsp;km²{{sup|2}}-->あたりの人口は[[2012年]]現在で1173人になり、しばしばインドネシアの[[ジャワ島]]と比較される。人口爆発が社会問題となっているため、政府は[[1992年]]より、人口調節を推進して人口の増加を抑えようとしており、一定の成果を上げつつある。1992年に4.18あった合計特殊出生率は2001年には2.56に、2011年には2.11まで減少している。<ref>臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章 [第2版]』 明石書店 2009年 27ページ</ref><ref>[Statistical Yearbook of Bangladesh ]Bangladesh Bureau of Statistics 2012</ref>。
 
人口増加率は独立当初3%を超え、3.4%(1975年)だったが、2.02%(199502%(1995年)、2.056%(2007年推計)、1.26%(200826%(2008/2009年)と急激に減少してきている。近年は南アジアで最も人口増加率の低い水準の国となっている。<ref>国勢調査、1974年7130万人、1981年8994万人、1991年1憶799万人、2001年1億2925万人、(臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 参考文献『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 27ページ)</ref><ref>http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2012/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=53&pr.y=12&sy=2000&ey=2012&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=512%2C558%2C513%2C564%2C514%2C524%2C534&s=LP&grp=0&a=</ref>。
 
=== 民族 ===
294行目:
教育制度は小学校5年、中学校5年、高校2年の5-5-2制である。識字率は53.5%(2009年)。義務教育は小学校5年のみである。就学率は2000年には95%に達し、それにつれて識字率も徐々に上昇してきたものの、児童の中退率が3割に達し、また授業や教育環境の質が低く児童の学力が向上しないなどの問題がある。
 
== 文化 ==
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{{main|バングラデシュの文化}}-->
食文化としては大量にとれる米を主食とし、ガンジス川流域や海岸、汽水域などで大量にとれる[[魚]]も重要な蛋白源となっている。演劇や詩作もさかんである。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<div style="font-size:small">{{Reflist|2}}</div>
 
== 参考文献 ==