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[[ナポレオン戦争]]後に[[ウィーン体制]]がしかれて[[中央ヨーロッパ|中欧]]の民族運動がほとんどの場合失敗に終わったにもかかわらず、セルビア民族主義運動は[[ロシア帝国|ロシア]]の後ろ盾で成功し[[1860年代]]にはかなりの自治権を認められるようになった。[[1878年]][[サン・ステファノ条約]]と[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン条約]]を通じて[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]はモンテネグロ、ルーマニアとともに再び独立を勝ち取った。
 
第一次大戦後にセルビア王国は[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]を[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]から奪取し南スラブ人による共同国家[[ユーゴスラビア]]王国の建設をめざす。民族問題に頭を悩ませたユーゴ政府はセルビア独裁体制を建設してこれに対応しようとしたためクロアチア人との対立が深まり第二次大戦中ユーゴは[[ナチス・ドイツ]]にすり寄ったクロアチアに独立を許すこととなる。[[クロアチア独立国|ファシスト政権クロアチア]]の首魁[[アンテ・パヴェリッチ]]により70万人のセルビア人が虐殺された。大戦後もユーゴスラビアの構成員としてクロアチア人、[[スロベニア人]]、[[ボシュニャク人]]、[[マケドニア人]]と協調を図ってきたが[[1980年]]指導者[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]を失ってからはクロアチア人と再び対立を深めた。ことに、いわゆる「クロアチア民族主義運動」を掲げて2度も逮捕されたクロアチア民族主義の首魁[[フラニョ・トゥジマン]]が、極右団体[[クロアチア民主同盟]]を結成してクロアチア人民を煽動し、セルビア側との事前交渉なしに一方的な独立宣言をしたことは、致命的な対立の序章であったと言える。また、[[コソボ]]では[[アルバニア人]]とセルビア人との関係が険悪となり、15年近くにわたり両者が激しく睨み合うこととなった。かつてクロアチアがナチス・ドイツにすり寄って一時的であれ政治目的を達成したように、今次のクロアチアやコソボはNATOを後ろ盾に無理難題を押し通すことを試みて、しかも悪いことに道理は引っ込んで無理難題の方が奏功してしまったのである
 
[[1992年]]には[[ユーゴスラビア連邦共和国]](FRJ)が成立しセルビアは[[モンテネグロ]]とともに連邦構成国となった。その後[[2003年]]にFRJの国称は[[モンテネグロ人]][[アイデンティティー]]確立の風潮にあわせ[[セルビア・モンテネグロ]]と改まった。[[2006 FIFAワールドカップ|サッカーワールドカップ]]が迫る[[2006年]][[6月3日]]、これに先立つ[[5月23日]]におこなわれた国民投票の結果を踏まえ、[[モンテネグロ]]はセルビア・モンテネグロから独立を宣言。[[6月5日]]にセルビアがセルビア・モンテネグロ継承を宣言し、旧ユーゴスラビアは完全に解体した。また2008年には[[国際連合|国連]]統治下にあった[[コソボ]]が、セルビア側と充分な事前調整を行わないまま分離独立を宣言したが、その強引とも言える一方的な独立宣言に対して、少なからぬ国が承認を与えてしまった。無論、セルビア政府は今日に至るまでコソボの独立を承認していない。
 
== 分布 ==
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* [[モンテネグロ人]]
* [[ボシュニャク人]]
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[[Category:セルビアの民族]]