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そして、明治25年(1892年)[[慶應義塾]]正科(現在の[[慶應義塾大学]])卒業後の1892年(明治25年)には[[三井銀行]]([[三井住友銀行]]の前身)に勤務。34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。[[日露戦争]]終結後、[[三井物産]]の大物である飯田義一や、かつての上司で北浜銀行([[三菱東京UFJ銀行]]の前身のひとつ)を設立した[[岩下清周]]に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する[[証券会社]]の支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任。
 
しかし、[[恐慌]]に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えてしまい、妻子を抱えて早速失業することになった。その頃に小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして、岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功。1907年(明治40年)6月に「[[箕面有馬電気軌道]]」と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となった。
 
もともと阪急電鉄の前身となる箕面有馬電気軌道は、[[鉄道国有法]]によって国有化された[[阪鶴鉄道]](現在のJR[[福知山線]])の関係者が福知山線に並行する電気鉄道路線を敷設し、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面へ頻発運転を行うことを目的として設立されようとしていたが、おりしも恐慌に見舞われて全株式の半分も引き受け手がないといった苦境に追い込まれていた。
 
しかし社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになった。そして1910年(明治43年)に開業しているが、有馬までの開業ではなく、現在の[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急箕面線|箕面線]]に相当する区間にとどまっている<ref>この理由として難工事と説明されているが、地形については難工事に該当する区間が特に存在しないため、[[有馬温泉]]の住民から反対があり断念したとの説が有力である。</ref>。これに先立って線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年(明治43年)に分譲を開始した。小林には、この時すでに「大衆向け」住宅の発想があったのか、サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった[[割賦販売]]による分譲販売を行い成功を収めた。