「ハリー・コーン」の版間の差分

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比和昇 (会話 | 投稿記録)
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コーン兄弟の時代にコロムビアは急成長を遂げた。最初は主に[[B級映画]]を作っていたが、やがて名匠[[フランク・キャプラ]]を迎え、[[ジーン・アーサー]]、[[ストゥージ三兄弟]]、[[リター・ヘイワース]]、[[ウィリアム・ホールデン]]などの名優を配して評価を上げた。ハリー・コーンが牛耳っている間はコロムビアは絶対赤字になるまいと、業界ではもっぱらの噂だった。
 
コーンは[[独裁]]的かつ威嚇的なやり方で有名だった。従業員からは「ハリウッド始まって以来の完全な[[暴君]]」と呼ばれ、スタジオを「私的[[警察国家]]のように」牛耳っていると評された。「スタジオのあらゆる音声機器には[[盗聴器]]が仕掛けてあって、誰かに悪口を言われようものなら、すぐさま[[拡声器]]で怒鳴りつける」との評判だった。従業員のやる気を最大限に引き出すため、あるいは単にスタジオでの支配力を増大させるために、暴君としての評判が壊れないよう細心の注意を重ねていたという説もある。彼は1933年に[[イタリア]]で[[ムッソリーニ]]に会い、サイン入りの[[肖像写真]]を貰って、[[第二次大戦]]が始まるまで机の上に飾っていた。[[マフィア]]の[[ジョン・ロセッリ]]は旧友であり、[[ユダヤ系ギャング]]の[[アブナー・ツヴィルマン]]からは、ブラントよりから会社の株を買い占めるときに資金を借りた。出演契約をエサにして[[女優]]に[[セックス]]を要求したという話もあるが、この種の要求自体は、当時のハリウッドの[[プロデューサー]]としては別に珍しくもなかった。
 
1958年に亡くなった際には大規模な葬儀がおこなわれた。出席者の一人[[レッド・スケルトン]]は、「『人が見たがっているものを出せ、そうすりゃ人は見に来るんだ』と言うが、本当だね」と冗談を言った。([[ゴシップ]][[コラムニスト]]の[[ヘッダ・ホッパー]]は「ハリーを嫌うには、行列に並ばなきゃね」と付け加えた。)ハリーのなきがら亡骸は、ハリウッド関係者専用の[[ハリウッド・フォーエヴァー墓地]]に眠っている。