「甲申政変」の版間の差分

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金玉均自身の最初の訪日は1882年3月から同年の8月までであった<ref name=unno61/>。これは、自身が高宗にはたらきかけた結果実現したもので、高宗は金玉均、朴泳孝、[[閔泳翊]]、[[徐光範]]の4人を日本に派遣しようとしたが、朴泳孝と閔泳翊は都合がつかず、31歳の金玉均と23歳の徐光範の派遣となった<ref name=o89>[[#呉|呉(2000)pp.89-101]]</ref>。金玉均は[[長崎]]で地方議会、[[裁判所]]、小中学校・[[師範学校]]、電信施設などを視察、[[大坂]]では府知事と会見して[[練兵場]]、印刷所、建設会社などを見学、[[京都]]では府庁を訪問したほか盲唖院その他を見学している<ref name=o89/>。東京では福澤諭吉と親しく交わり、主要な施設を精力的に視察した。また、福澤の紹介などによって[[井上馨]]、[[大隈重信]]、[[榎本武揚]]、[[副島種臣]]、[[渋沢栄一]]、[[大倉喜八郎]]、[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]をはじめ、官民問わず多数の人びとと会合した<ref name=o89/>。さらに[[横浜]]の清国公使館はじめ各国の領事館等もくまなく訪問し、海外事情の収集にも尽力した<ref name=o89/>。金玉均らが壬午軍乱の報に接したのは、その帰途の[[下関]]においてであり、大院君拉致事件のことを知ったのは仁川においてであった<ref name=unno61/>。
 
[[ファイル:Imogullan1.jpg|thumb|left|380px|壬午軍乱</br />襲撃された日本公使館]]
 
壬午軍乱は、[[呉長慶]]や[[丁汝昌]]らを中心とする清国軍が、乱の首謀者で国王の父[[興宣大院君]]を拉致して中国の[[天津]]に連行したことで収束した。復活した[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]と閔氏の政権は清国の制度にならった政治改革をおこなった<ref name=o66/>。朝鮮はまた、清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都漢城(現、[[ソウル特別市|ソウル]])への駐留という事態を引き受けざるを得なくなった<ref name=o66/>。上述のとおり、朝鮮は清国より中朝商民水陸貿易章程を押し付けられることとなり、開化政策は清国主導で進められることがはっきりとしてきた。一方、朝鮮政府は、軍乱後に日朝間で結んだ[[済物浦条約]]の規定によって1882年10月に謝罪使として朴泳孝を特命全権大使、[[金晩植]]を副使、徐光範、閔泳翊、徐載弼、[[柳赫魯]]らを従事官とする総勢約20名を派遣した<ref name=unno61/><ref name=o89/><ref name=sasaki221>[[#佐々木|佐々木(1992)pp.221-224]]</ref>。金玉均は書記官の肩書で顧問としてこれに加わった<ref name=unno61/><ref name=o89/>。一行は同年12月まで日本に滞在し、朴泳孝らは[[明治天皇]]に謁見、政府高官とも接触して朝鮮独立援助を要請、さらに福澤諭吉ら多くの日本の[[知識人]]と親交を結んで海外事情や新知識を獲得した<ref name=unno61/><ref name=sasaki221/>。