「チャールズ・ダーウィン」の版間の差分

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1882年明けから心臓に痛みを覚えるようになり体がいっそう不自由になった。1882年4月19日に、[[ケント (イングランド)|ケント州]][[:en:Down House|ダウン]]村の自宅で死去した。彼はダウン村のセントメアリー教会に葬られると考えていたが、同僚たちは科学の優位性を一般の人々に印象づける好機と見なした。フッカー、ハクスリー、[[ジョン・ラボック|ラボック]]といった友人たち、王立協会会長[[ウィリアム・スポティスウッド]]、[[フランシス・ゴルトン]]らは家族を説得し、報道機関に記事を書き、教会と王室、議会に働きかけた。ダーウィンは同年4月26日に国葬に付されウェストミンスター寺院に埋葬された。
 
妻エマは[[1896年]]にダウンで没し、先に亡くなった兄エラズマスと同じくダウンの墓地に葬られている。[[ニューヨークタイムズ]]紙はダーウィンの死去の特集記事で「進化論を発見したのではなく、アリストテレスの時代からあった生物の疑問を科学的に解決したのだ」と述べた<ref>http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0212.html</ref>。
 
== 家族と子孫 ==