「後光明天皇」の版間の差分

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* 平生[[酒]]を嗜んだが、ある酒宴の席で[[徳大寺公信]]より酒の飲み過ぎについて諫言された。天皇は顔色を変え、剣を取って切り捨てようとすると、公信も「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と言って御前を去らず、侍臣らが執り成してその場を治めた。自らの態度を悔いた天皇は心安まらず、翌朝公信を召して、諫言のとおり今後は大酒を止める決意を述べ、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、剣を手ずから下賜した。公信は何も言わず、ただ涙を抑えていたという<ref>[[若槻幾斎]] 『承応遺事』他。</ref>。
* [[仏教]]を「無用の学」と言うほどの仏教嫌いであった。開けてはならないとされる[[三種の神器]]が収められた[[唐櫃]]を開け、[[鏡]]の他に[[仏舎利]]が有るのを見ると、「怪しい仏舎利め」として庭に打ち棄てさせた<ref>『後光明天皇外記』</ref>。
* 徳川家は当初、かつての[[摂家|摂関家]]のように天皇の外戚になることを意図して東福門院の入内を図ったが、実際に明正天皇が即位することで反対に、公家や諸大名が彼女に口入させて幕府に影響を与えることが警戒されるようになった。譲位直前の寛永20年9月1日、伯父である将軍[[徳川家光]]は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付し、[[官位]]など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第1条)、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族とも言えども対面は不可(第2条)、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には[[院伝奏|新院の伝奏]]に届け出て表口より退出すること(第3条)、両親の下への[[行幸]]は可・新帝([[後光明天皇]])と実妹の[[女二宮 (後水尾天皇皇女)|女二宮]]の在所への行幸は両親いずれかの同行で可・新院のみの行幸は不可とし行幸の際には必ず院付の[[公家]]が2名同行する事(第4条)などが命じられ、厳しく外部と隔離されることとなった。こうした徳川家を外戚とする明正天皇を取り巻いた事実は、東福門院より後に徳川家からの入内が行われなかったことと深く関わっていると考えられている<ref>村和明 『近世の朝廷制度と朝幕関係』(東京大学出版会、2013年)P31-33・37-38</ref>。
 
== 在位中の元号 ==