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{{Infobox 人物
'''細川 ガラシャ'''(伽羅奢、迦羅奢){{Refnest|group="注釈"|「伽羅奢」の表記は日本史大事典・第6巻 167ページ(平凡社 1994年)、日本女性人名辞典 945ページ(日本図書センター 1998年)、世界大百科事典・第26巻 292ページ(平凡社 1988年)による。なおウェブサイト「肥後細川藩拾遺」に紹介されている「細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談」(山本秀煌 1930年)には、「細川家記」からの引用として「迦羅奢」と表記されている。}} / '''明智 珠'''('''明智 玉''')(ほそかわ ガラシャ / あけち たま、[[永禄]]6年([[1563年]]) - [[慶長]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[1600年]][[8月25日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての女性。[[明智光秀]]の三女で[[細川忠興]]の[[正室]]。[[諱]]は「'''たま'''」('''珠'''、'''玉''')または'''玉子'''(たまこ)。[[キリスト教]]信徒([[キリシタン]])として有名。
|名前=細川 ガラシャ
|ふりがな=ほそかわ ガラシャ
|別名=明智 珠/玉(あけち たま)
|生年月日=[[永禄]]6年([[1563年]])
|没年月日=[[慶長]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[1600年]][[8月25日]])(36-37歳)
|宗教=[[キリスト教]]
|親=[[明智光秀]]
|配偶者=[[細川忠興]]
|children=[[於長]]、[[細川忠隆]]、[[細川興秋]]、[[細川忠利]]、[[多羅]]など
|活動期間=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]
}}
'''細川 ガラシャ'''(伽羅奢、迦羅奢){{Refnest|group="注釈"|「伽羅奢」の表記は日本史大事典・第6巻 167ページ(平凡社 1994年)、日本女性人名辞典 945ページ(日本図書センター 1998年)、世界大百科事典・第26巻 292ページ(平凡社 1988年)による。なおウェブサイト「肥後細川藩拾遺」に紹介されている「細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談」(山本秀煌 1930年)には、「細川家記」からの引用として「迦羅奢」と表記されている。}} / '''明智 珠'''('''明智 玉''')(ほそかわ ガラシャ / あけち たま、[[永禄]]6年[[1563年]]- [[慶長]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]][[1600年]][[8月25日]]))〉)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての女性。[[明智光秀]]の三女で[[細川忠興]]の[[正室]]。[[諱]]は「'''たま'''」('''珠'''、'''玉''')または'''玉子'''(たまこ)。[[キリスト教]]信徒([[キリシタン]])として有名。
 
子に、[[於長]](おちょう: [[前野景定]]正室)、[[細川忠隆|忠隆]]、[[細川興秋|興秋]]、[[細川忠利|忠利]]、[[多羅]](たら: [[稲葉一通]]室)などがいる。
 
[[明治]]期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれる場合が多い<!--が、本名は「明智 珠」が正しい -->。