削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
25行目:
建安元年([[196年]])、族父が[[南陽郡]]の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死した為、その軍勢を張繍が継ぐ事となった。その後、新たに参謀として加わった[[賈ク|賈詡]]は、張繍に対し「将軍(張繍)は軍才に優れておられるが、[[曹操]]には及ばない」と語ったと言われる。張繍は賈詡の進言に従い、賈詡を派遣して[[劉表]]と同盟を結んだ。張繍は[[南陽市 (河南省)|宛]]に駐屯し、劉表軍と合流した。
 
建安2年([[197年]])春、曹操が南陽郡に侵攻し淯水に陣営を置くと、張繍は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、曹操が亡き族父の妻であった未亡人・氏を側妾にした為、張繍は恨みを抱く様になった。曹操は張繍が恨んでいる事を知ると、密かに張繍を殺害する計画を立てた。しかし張繍はこの計画に気付くと、賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。この奇襲で張繍は、[[曹昂]]・[[曹安民]]・[[典韋]]などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。曹操が舞陰に撤退すると、張繍は[[騎兵]]を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。このため張繍は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。曹操が[[許昌]]に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張繍に味方する事となった。
 
その後も、張繍・劉表は曹操と抗争を続けた。建安3年([[198年]])に曹操が穣に攻め寄せた時は、劉表の派遣した援軍のおかげで、張繍は勝利した。曹操は張繍に退路を絶たれたので、撤退すら儘ならなくなったが、[[伏兵]]を用いて張繍軍を大いに破った。曹操軍の[[荀攸]]によれば、張繍軍はまるで劉表軍の遊撃隊のようであり、また劉表に食料を頼っていたという。