「相楽総三」の版間の差分

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[[青山霊園]]立山墓地に墓所がある。
 
== 赤報隊の実態 ==
「官軍の捨て駒にされた悲劇の主人公」として扱われてきた赤報隊だが、近年の研究でその実像が明らかにされつつある<ref name="gakken">『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』 [[Gakken]] p.76~77</ref>。
 
慶応3年([[1867年]])10月、討幕の密勅を根拠として、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。相楽たちは関東3か所で挙兵する計画を立てていたが、その後、[[大政奉還]]が実現したことにより密勅は取消されている。[[薩摩藩]]は江戸薩摩藩邸宛てに関東での'''攪乱工作の停止'''を指示し、大政奉還の翌日にも「'''鎮静'''」するように念を押している。にもかかわらず、相楽たちは指示をことごとく無視して[[流山]]と萩野山中で挙兵し、いずれも鎮圧されている。相楽たちの軍資金は[[豪商]]を襲って得たものであった。相楽たちの挙兵は旧幕府方を刺激し、[[庄内藩]]と旧幕府軍による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|江戸薩摩藩邸焼き討ち事件]]に発展している<ref name="gakken" />。
 
江戸を脱出した相楽たちは近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令されたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken" />。
 
赤報隊一番隊は東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていた。しかしながら、相楽は指示に従わず独立行動を続行し、[[碓氷峠]]を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「'''偽官軍'''」と見なされることになる<ref name="gakken" />。
 
東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた[[小諸藩]]など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた<ref name="gakken" />。
 
出頭した相楽は、東山道軍所属を正式に認められたものの、小諸藩から赤報隊による勝手な金穀の徴収や、略奪行為を通報されたことにより、ついに処刑された<ref name="gakken" />。
 
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