「露仏同盟」の版間の差分

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しかし、ヴィルヘルム2世は[[世界政策]](新航路政策)を掲げ、[[艦隊法]]の制定以降イギリスとの建艦競争に突入した上、中東進出(いわゆる「[[3B政策]]」)を企図してロシアとの関係も悪化させた。その結果、露仏同盟は対独同盟としての性格を強め、のちの[[英仏協商]]、[[英露協商]]と結びついて対独包囲網の一角を担うことになった。
 
露仏同盟は[[露清銀行]]を代表とする[[外資]]の呼び水となった。1891年より建設に着手する[[シベリア鉄道]]等、ロシア企業へ巨額の[[外資]]、特に[[ベルギー]]資本が流入した。債権を除いた国別外国投資をフランス・イギリス・ドイツ・ベルギーの順に100万ルーブル単位で記す。1890年は61.4、29.8、68.8、'''17.1'''であった。それが1900年に210.1、102.8、197.4、'''220.1'''となった<ref>J. P. McKay, ''Pioneers for Profit, Foreigin Entrepreneurship and Russian Industrialization 1885–1913'', University of Chicago Press, 1970, p. 32</ref>。この1900年、ロシアの銀行の総資本に占める外資の割合は28.3%に達していた<ref>南塚信吾 「金融資本の成立と展開 ロシア」 『講座 西洋経済史Ⅲ 帝国主義』 入江節次郎編 1979年 p.192.</ref>。それから[[第一次世界大戦]]勃発まで、フランスからの国別対外投資額はロシアが断然首位であって、2-4位のスペイン・オーストリア・[[オスマン債務管理局|オスマン帝国]]への3カ国投資額合計が1902年でロシアを少し越えていたのが、1914年わずかに届かなくなった<ref>F.Sternberg, ''Der Imperialismus'', Frankfurt am Main, 1917, SS.522-523.</ref>。巨額の投下資本は[[ロシア革命]]で回収が問題となって[[シベリア出兵]]に発展した。
 
==脚注==