「済州島四・三事件」の版間の差分

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歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮本土半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。[[韓国併合]]後、[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び[[日本]]などへ避難あるいは密入国し、そのまま[[在日韓国人]]となった人々も多い。日本へ逃れた島民は[[大阪]]などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人<ref name="Mun_2005">文京洙 (2005) 69頁。</ref>いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる<ref>[http://www.st.thomas.ac.jp/library/LINKFILE_4/23%20kanpo_news-200805.pdf 地域でつくる平和と共生フォーラム] 2008年5月[[聖トマス大学]]図書館ニュース</ref>。
 
この事件を初めて発表した在日韓国人作家の[[金石範]]は2015年4月1日に第1回[[済州四・三平和賞]]を授賞したが、授賞に際しては市民団体の妨害もあった。