「フランシスコ・タレガ」の版間の差分

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Tsukiyo-mi (会話 | 投稿記録)
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| Name = フランシスコ・タレガ<br/>{{lang|es|Francisco Tárrega}}
| Img = Francisco tarrega.JPG
| Img_capt = [[ビジャヴィラ=レアル]]に建つタレガの像
| Img_size =
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
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| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = <!-- 個人のみ -->
| Born = [[1852年]][[11月21日]]<br/>{{ESP}}、[[ビジャカステリョン県]][[ヴィラ=レアル]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1852|11|21|1909|12|15}}<br/>{{ESP}}、[[バルセロナ県]][[バルセロナ]]
| Origin =
| Instrument = [[ギター]]
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== 略歴 ==
[[ビジャカステリョン県]][[ヴィラ=レアル]]出身。幼い頃に[[用水路]]に落ちて危うく[[失明]]しかけた。おそらくはこのため([[目]]が不自由でも[[音楽]]で生計が立つだろうという[[父親]]の考え)に、[[家族]]に連れられ[[カステリョーン・デ・ラ・プラーナ]]に移り、音楽学校に進んだ。最初の音楽教師エウゲニ・ルイスとマヌエル・ゴンサレスはいずれも盲人であった。[[1862年]]にギター奏者のフリアン・アルカスに[[神童]]と認められ、その奨めによりスペイン楽壇の中心地[[バルセロナ]]を訪れる。父親は伴奏楽器の色合いが強かったギターだけでなく、[[ピアノ]]の勉強もすることを望んだ。アルカスが海外ツアーでいなくなり、10歳ばかりのタレガは[[カフェ]]や[[レストラン]]でギター演奏をすることで研鑽を積んでいた。しかしながら、それが見つかり間もなく父親によって連れ戻された[http://www.geocities.com/TheTropics/Shores/8063/tarrega3.htm]。[[1865年]]に[[家出]]し、[[バレンシア]]で[[ロマ]]の一団に加わるが、再び父親に見つかり連れ戻される。もう一度家出しバレンシアに行くが、今度は自発的に戻り、家計を助けるようになった。
 
[[1874年]]に[[マドリッド音楽院]]に進学。豪商アントニオ・カネサの援助のもとに、作曲をエミリオ・アリエータに師事。[[1870年代]]末までにギター教師として立ち(門人に[[ミゲル・リョベート]]と[[エミリオ・プジョル]]がいる)、定期的な演奏会も行なった。ギターの[[ヴィルトゥオーソ]]として鳴らし、「ギターの[[パブロ・デ・サラサーテ|サラサーテ]]」の異名をとった。バルセロナに定住して[[1909年]]に逝去。