「ラミロ3世 (レオン王)」の版間の差分

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975年、サラセン人の援軍が到着する前に、彼はサン・エステバン・デ・ゴルマスの城の包囲を解かねばならなかった。レオン、ナバラ、カスティーリャ軍の撤退による大敗は、エルビラ・ラミレスの摂政位辞任、テレサ・アンスレスのみが摂政となるという政治的危機を招いた<ref>Alemparte, Julio (1961). ''Andanzas por la vieja España''. Ed. Andrés Bello</ref>。
 
976年、ハカム2世が死去し、わずか11歳の[[ヒシャーム2世]]が即位した。新たに[[アルマンソール]]が宰相となった。970年代後半から980年代前半、アルマンソールはレオン王国への襲撃を第一に行っていた。[[サモーラ (スペイン)|サモーラ]]、ルエダ、アティエンサ、セプルヘダがイスラム教徒の手に落ちた。
 
レオン王に対しガリシア貴族と[[ポルトガル]]貴族からの不満が生まれた。サンチョ1世、ラミロ3世の時代を通じて、時がたっても貴族の不満が解消されることはなかった。困難で連続して起こるイスラム教徒との戦いの敗北は、貴族の不満を増加させた。ついに、これら貴族はラミロ3世に反乱を起こし、981年にベルムード・オルドニェスが[[ベルムード2世]]として王位についた<ref>González López, Emilio (1978). ''Grandeza e decadencia do reino de Galicia''. Ed. Galaxia</ref> 。ベルムードは[[オルドーニョ3世]]の子で、ラミロ3世とはいとこ同士だった。982年の春から夏にかけて、ベルムードの支持者らはガリシアを手中においていた。そして彼は10月15日(または11月13日)、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]で戴冠した<ref name=Leyenda>Martínez Díez, Gonzalo (2005). ''El condado de Castilla (711-1038): la historia frente a la leyenda''. Marcial Pons Historia</ref>。レオン王国は2つに分裂した。レオン王国と[[カスティーリャ]]はラミロ3世に忠実であった。ガリシアとポルトガルはベルムードの味方だった。983年初頭、ラミロ3世軍はガリシア、アンタス・デ・ウリャ近郊でベルムード軍と対決した。結果は不明であり、ベルムードはガリシアに残り、ラミロ3世はレオン王国において国土をイスラム教徒の攻撃から守ることに焦点をおいた。984年春までには、一部の[[カウンティ]]がベルムードを王として承認していた。2人の王を掲げたまま決着はつかず、985年にラミロ3世が死んで初めてベルムード2世が王国を単独で治めることとなった。