「小鶴誠」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
56行目:
{{by|1949年}}に[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]に移籍した後、バットを力まずに振る感覚を身につけ、打撃奨励のための'''ラビットボール'''と呼ばれる飛ぶボールが採用されたこともあり、飛躍的に打撃成績が向上した。同年は[[打率]].361で[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を獲得。
 
{{by|1950年}}、[[松竹ロビンス]]に移籍。[[岩本義行]]、[[大岡虎雄]]、[[金山次郎]]らと共に「'''[[水爆打線]]'''」と呼ばれた強力打線を形成した。この年は前年に生まれた[[藤村富美男]]の日本記録の46本を更新する47本を放ち、さらに[[11月2日]]の対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]戦([[日本生命球場|日生球場]])の3回において、大洋の[[今西錬太郎]]からレフトへ日本プロ野球史上初のシーズン50本目の本塁打を放つ<ref>ベースボールマガジン2012年1月号51ページ</ref><ref>1963年に[[野村克也]](52本)に破られるまでは日本記録で、1964年に[[王貞治]](55本)に破られるまでは[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]記録であった。</ref> シーズンを通して130試合の出場で打率.355・51[[本塁打]]・161[[打点]]の成績<ref>161打点・143[[得点]]・376[[塁打]]は現在でも[[日本プロ野球]]記録である</ref>でリーグ優勝に貢献。打率は.362の藤村富美男に及ばなかったものの、本塁打・打点の2冠と[[最優秀選手 (日本プロ野球)|シーズンMVP]]を獲得した。この年は28盗塁を記録し、日本球界唯一の50本塁打20盗塁を達成している(この記録は当時、メジャーリーグでも達成者がいなかった)。しかしシーズン終盤に[[椎間板ヘルニア]]を発症し、[[1950年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では活躍できなかった。なお、[[川上哲治]]の「ボールが止まって見えた」という言葉があるが、これは'''実際には小鶴誠'''が50本塁打を達成した時に言ったものであり、知名度のない小鶴では記事にならないからいう理由で[[報知]]の記者が川上がた事にしたものである<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20140723/hig14072311300001-n1.html 【乾坤一筆】わが故郷が生んだ大打者「小鶴誠」]</ref><ref>[http://www.care-news.jp/nenrin_news/kawakami_n_2011.html 最高の野球人 川上哲治]</ref>。
 
翌{{by|1951年}}からは飛ぶボールの廃止と椎間板ヘルニアの悪化により、成績を落とした。治療法も無い時代であったため、腰の痛みで感覚が無くなる程だったという。