「井伊直勝」の版間の差分

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若年のため暫くは[[家老]]が政務を代行していたが、元々個性の強い者が多かった配下の家臣達がまとまらず、また徳川家の直臣から直政の寄騎となり家康の命でそのまま井伊家の家臣とされた「付人」と称された重臣の中には直継と合わず、機会があれば再び旗本(徳川家の直臣)に戻りたいと願う者もいたため、家中で内部対立が深刻化した。家康は[[木俣守勝]]・[[鈴木重好]]の両名を家老として直継を補佐させる方針であったが、慶長10年([[1605年]])には付人の[[椋原正直]]・[[西郷重員]]を中心とした家臣団が鈴木重好・[[鈴木重辰|重辰]]父子の不正を家康に直接告発したために重好が追放され(子の重辰は椋原・西郷らと互いに[[起請文]]を取り交わして和解)、慶長15年([[1610年]])に木俣守勝が亡くなると、直継は家康の了承を得て守勝の養子・[[木俣守安|守安]]ではなく鈴木重辰と椋原正直を家老に任じたものの、父子揃って家中の人望を得ていた木俣家の排除は家臣達を動揺させた(異母弟の直孝も重臣の和田浄閑に宛ててこのことに不満を述べた書状を残っている)<ref name=komiyama>小宮山敏和「近世初期における譜代大名〈家中〉の成立」『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5</ref>。また生来病弱であったため軍役にも参戦しないことがあったという説もある。そのため憂慮した家康が事態の収拾を図り、井伊谷以来の家臣は直継に、[[武田氏]]の遺臣などは異母弟・直孝に配属された。また井伊家の領地のうち彦根は直孝、上野国安中は直継の領有とされた。
 
慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣]]が始まると、愚鈍であったため江戸に押し込められていた直継<ref>「当代記」慶長19年12月4日条</ref>の名代として、家康は直孝を井伊軍の大将に指名し、直継は安中の関所警護を務めた。大坂冬の陣後、家康は期待に応えた働きを見せた直孝に正式に井伊氏の家督を継がせ、直継は上野国安中藩3万石を分知された。このときに直継から'''直勝'''と名を改めた。井伊家の家督の交替は公式には直継の病弱を理由としているものの、当時の井伊家(彦根藩)は家康の直接統制下に置かれていたとされ、直継(直勝)・直孝間の家臣団の分割についても家康の命を受けた幕府年寄([[老中]])が決定したとされている。このため、実際には直継と付人の対立などで家康から家中を統制する「器用」がないと判断されてしまった直継が当主の座から追われたとみられている<ref name=komiyama/>。
 
[[寛永]]9年([[1632年]])に[[隠居]]して長男・[[井伊直好|直好]]に家督を譲る。直好は[[正保]]2年([[1645年]])に[[三河国|三河]][[西尾藩]]、[[万治]]2年([[1659年]])に遠江[[掛川藩]]に[[移封]]され、隠居である直勝もこれに従った。