「桜花 (航空機)」の版間の差分

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[[ファイル:Mitsubishi G4M2e with Okha under attack 1945.jpeg|thumb|250px|アメリカ軍戦闘機のガンカメラで撮影された、神雷桜花部隊野中隊の一式陸攻]]
その後、野中少佐は飛行場の陸攻指揮所に行く途中、飛行長[[岩城邦広]]少佐に「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは[[湊川の戦い|湊川]]の戦いだよ」と言った<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p18、加藤浩『神雷部隊始末記』p202</ref>。
一方で、自ら「野中一家」と名乗り見事に統率してきた隊員らに対して「野郎ども集まれ」と呼集をかけると<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』光人社NF文庫 P.110</ref>ただいまより敵機動部隊撃滅に向かう(中略)ただいま以降、攻撃開始までは無線中止とする。どんな弱い電波も出しちゃならねえ。(中略)待ちに待った時がきたのである。日頃鍛えに鍛えた訓練の成果を示す時が来たのである。戦わんかな最後の血の一滴まで国に捧げる時が来たのである。諸士の健闘を望む。」と普段の[[江戸言葉|べらんめえ口調]]を交えながら訓示を行って士気を鼓舞している。<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p18</ref><ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.204</ref>「野中一家」の通例であった勇壮な陣太鼓が打ち鳴らされる中で、部下の若い搭乗員らも野口少佐の意気に応えるように、出撃時には「行って来まアす」と大声を出し、遠足に出ていく子供の様に笑顔で手を大きく振りながら出撃して行ったと、当時報道班員として神雷部隊の取材をしていた作家[[山岡荘八]]が述べている。{{#tag:ref|山岡荘八は鹿屋基地近くに立つ2軒の平屋の内の1軒に他の報道班員と滞在、神雷部隊隊員と寝食を共にし2ヶ月に渡って取材をしている。もう1軒の平屋は神雷部隊司令岡村大佐の宿舎であった。|group="注釈"}}<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.291</ref>
 
1945年[[3月21日]]、神雷部隊は第一回神雷桜花特別攻撃隊(第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊)を編成、沖縄を攻撃中の米機動部隊に向けて出撃させた<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p17</ref>{{#tag:ref|[[野中五郎]]少佐指揮による[[一式陸攻]]18機(うち隊長機3機は桜花未搭載)、桜花15機、護衛の[[零式艦上戦闘機|零戦]]55機の編成。|group="注釈"}}。