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|出身地 = [[河東]]解(現・[[山西省]][[運城市]])
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]24年[[12月 (旧暦)|12月]]([[220年]]1月)
|死没地 = [[荊州]]臨沮<br /> (現・[[湖北省]][[襄陽市]][[南ショウ県|南漳県]])
|ピン音 = Guān Píng
|字 =
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|特記事項 =
}}
'''関 平'''(かん ぺい、 ? - [[220年]])は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。[[字]]は不詳。父は[[関羽]]。兄弟に[[関興]]。
 
== 史実の関平 ==
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』では、220年に関羽の軍勢が[[荊州]]において、[[曹操]]軍の[[曹仁]]・[[孫権]]軍の[[呂蒙]]らの軍と戦った時に随行し、孫権軍に捕縛され関羽と共に首を討たれたことが、「関羽伝」に記載されているのみである。
 
後述する小説『[[三国志演義]]』では関羽の養子として登場するが、『三国志』ではそういった記述はく実子であるとされている。
 
== 三国志演義での活躍 ==
小説『三国志演義』では、河北の住人である関定の次男として登場する。兄は関寧となっている。
 
曹操に[[徐州]]を追われ、散り散りになった[[劉備]]ら三兄弟の再会の場所として、関定の屋敷が登場する。その際、関定が関平を随行させてほしいと頼み込んだため、劉備のとりなしで子がいない関羽の養子となる。
 
劉備の養子[[劉封]]と行動をともにする場面が多く、[[新野県|新野]]に[[夏侯惇]]が攻めて来た際や、[[益州]]の地を取りに行くと称し劉備を殺そうとした[[周瑜]]を防いだ際、また益州攻略戦への従軍などで描かれている。益州攻略戦において[[ホウ統|龐統]]が戦死したため、[[諸葛亮]]たち荊州守備勢の助けを得るため使者として向かい、そのまま関羽と共に荊州に留まる。その後、関羽に従い[[襄州区|襄陽]]攻めなどで活躍するが、呂蒙に攻められ関羽と共に首を斬られている。
 
この『三国志演義』での描写により、[[関帝]](関羽)を祭った[[関帝廟]]の随神として[[周倉]]と共に祭られている。右側に立っているのが関平帝君(関平)である。
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銭静方『小説叢考』では、[[清]]代に発見された関羽の墓碑なるものを根拠に、関平を関羽の実子とし、[[178年|光和元年]](178年3月以降)に生まれたとしている。
 
なお、関平の字は史実・『演義』において記されていないが、民間伝承では字が「坦之」<ref>『関聖太子宝誥』の関聖太子事略は「関聖帝君之長子也。名平,字坦之」。</ref>(たんし)であると伝えられている。[[京劇]]古典剧目の『走麦城』でも「関坦之」と記される。[[2010年]]の中国のドラマ『[[三国志 Three Kingdoms]]』では「定国」と設定されている。
 
また、清代の『[[江陵県志]]』によると、関平は[[趙雲]]の娘[[趙氏]]を娶ったという。 関平と趙氏の子は[[関エツ|関樾]](木偏に越)という名で、[[江陵]]に住んでいたとある。(趙氏,關平之妻,清《江陵縣志》載關平娶鎭東将軍趙雲女趙氏,生子關樾,世居江陵)。
 
[[日本放送協会|NHK]]の『[[人形劇 三国志]]』では、父と生き別れ[[司馬徽]]の家で童子として働いていたところ、劉備たちと出会い行動を共にするようになる。関羽を実父同然に慕ううちに義子として迎えられ、立派な武将に成長し活躍するという大いに脚色された設定がなされている。作中では演義での関興の役割も吸収し、諸葛亮の[[北伐]]にも従って[[姜維]]と共に彼の最期を看取り、長い物語の終焉を飾る大事な役割を果たしている。
 
== 脚注 ==
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