「中国学」の版間の差分

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[[19世紀]]以降、[[産業革命]]と工業化に成功した西欧諸国は、それまで通商・外交関係において劣位に立っていた中国に対して全面的な攻勢に転じた。すなわち[[アヘン戦争]]以後、政治的・経済的・軍事的な優位に立った西欧の列強は、自由貿易を通じて中国を国際的な[[資本主義|資本主義経済]]のシステムに編入し、[[市場]]や領土の支配に乗り出したのである。これにより、シノロジーにはそれまでの布教以外に、[[植民地]]的進出という新たな目的が付け加えられるようになった。これにより中国学者の中では宣教師出身者よりも世俗的な学者が多数を占めるようになっていく。
 
この時期、西洋におけるシノロジーの中心となったのは、17世紀以来の伝統と蓄積をもつフランスである。この国では[[フランス革命]]後の[[1795年]]に東洋語学校が設立、次いで[[1814年]]には[[中国語]]と[[満州語]]の講座が、最高学府である[[コレージュ・ド・フランス]]に創設され、ヨーロッパの大学では最初のシノロジー講座となった。そして独学で中国語を学んだ[[ジャン=ピエール・アベル=レミュザ|レミュザ]]が、ヨーロッパでは最初の中国語の教授になった。彼に続いて、シノロジーにおける文献批判の方法を確立した[[エドゥアール・シャヴァンヌ|シャヴァンヌ]]が現れ、彼のもとで[[敦煌学]]の[[ポール・ペリオ|ペリオ]]、[[道教]]研究の[[アンリ・マスペロ|マスペロ]]、『[[詩経]]』研究の[[マルセル・グラネ|グラネ]]が出てくるに及び、フランスの古典学的シノロジーはヨーロッパでも最高水準のものとなった。フランスに続いて[[イギリス]]・[[ドイツ]]などでもシノロジーの発展がみられ、英では{{仮リンク|サミュエル・キッド|en|Samuel Kidd|label=キッド}}([[1797年]] - [[1843年]])、独では{{仮リンク|ヴィルヘルム・ショット|de|Wilhelm Schott (Orientalist)|label=ショット}}([[1807年]] - [[1889年]])がそれぞれの国で、フランスにおけるレミュザの役割を果たした。そして[[ジェームズ・レッグ|レッグ]](英)と{{仮リンク|[[ハンス・ゲオルク・コノン・フォン・デル・ガベレンツ|en|Hans Conon von der Gabelentz|label=ガベレンツ}}]](独)が両国で初めてキリスト教との関係を持たない著名な中国学者になった。
 
19世紀後半になりシノロジーはその知見をさらに広げていくことになる。[[アロー戦争]]後外国人に[[中国内地]]の自由旅行が認められ、西洋列強と中国との非対称的関係がさらに質量ともに深化していくと、それまで情報源を漢文の古典典籍や中国沿岸部に点在するヨーロッパ人居留地での見聞に依存していたシノローグたちは、さらに広く深く中国の内部に分け入ったのである。例えば、イギリスの[[オーレル・スタイン|スタイン]]、フランスのペリオ、ドイツの[[アルベルト・フォン・ル・コック|ル・コック]]によって行われた[[西域]]地方の考古学的探検調査は、各国でのシノロジーの発展に大きく貢献した。またシノロジーの対象分野も拡大していった。すなわち、従来からの古典研究や語学に加え、侵略戦争遂行のための兵要地誌作成や、経済進出のための市場・物産の調査、植民地支配のための慣行調査(19世紀末以後の「中国分割」の結果列強各国は中国領土の一部を直接支配下に置くことになり、行政上このような調査も必要となった)もまたシノロジーの名において行われるようになったのである。とはいえ後者のような同時代の中国を対象とする研究は、古典学としてのシノロジーとは区別されるべきであるとする考え方もあり、現状分析としての中国学は、どちらかというと[[地域研究]]の一分野としての「中国研究」(チャイニーズ・スタディーズ)とみなされ、次第に古典文化を研究する従来のシノロジーとは異なる分野とみなされるようになった(とはいえ、現在においても「シノロジー」といえば双方を包括する概念とされている)。