「カトー・カンブレジ条約」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=かとかんふれし条約_世界史}}
[[File:Cateau-Cambresis.jpg|thumb|カトー・カンブレジ条約を結ぶアンリ2世とフェリペ2世<ref>実際には両君主は欠席し使節が調印した</ref>]]
'''カトー=カンブレジ条約'''([[フランス語|仏]]:Traités du Cateau-Cambrésis, [[ドイツ語|独]]:Frieden von Cateau-Cambrésis, [[スペイン語|西]]:Paz de Cateau-Cambrésis)は、[[16世紀]]前半の[[イタリア]]を巡る戦争([[イタリア戦争]])を争った[[ヴァロワ朝]]([[フランス王国|フランス]])と[[ハプスブルク家]]([[オーストリア大公国|オーストリア]]・[[スペイン]])が[[1559年]]に結んだ講和条約。同年にスペインの[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]がフランス王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の娘[[エリザベート・ド・ヴァロワ|エリザベート]]と結婚したおかげで実現した。[[カトー=カンブレジ]]{{enlink|Le Cateau-Cambrésis}}は、フランス北部[[ノール県]]の町で、[[アンリ・マティス]]の生地でもある。
 
この条約でフランスはイタリアへの権利を放棄し、[[ミラノ公国|ミラノ]][[ナポリ王国|ナポリ]][[シチリア王国|シチリア]][[サルデーニャ島|サルデーニャ]][[トスカーナ州|トスカーナ]]西南岸がハプスブルク家の統治下に定まとなった。代わりにフランスは[[ロレーヌ公|ロレーヌ]]を譲た。これロレーヌよってイタリア戦争完全に終結する。スペインの[[フェリペ2世 (スペイカルヴァ王)|フェリペ2世]]はフランス王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の生地[[エリザベート・ド・ヴァロ|エリザベートイヨン]]と結婚した。が含た、[[フィレンツェ公国]]の[[メディチ家]]は[[シエーナ]]を獲得した。
 
また、[[フィレンツェ公国]]の[[メディチ家]]は[[シエーナ]]を獲得した。
和平を機会にサヴォイア家と結婚した[[エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公)|エマヌエーレ・フィリベルト]]は、7人の有力市民に[[:it:Compagnia di San Paolo|コンパーニア・ディ・サンパオロ]]という[[銀行]]をつくらせた<ref>Manfred Pohl, ''Handbook on the History of European Banks'', Edward Elgar Publishing, 1994, [https://books.google.co.jp/books?id=eXvfNDHpfWwC&pg=PA655&lpg=PA655&dq=Cateau+Cambresis+Compagnia+di+San+Paolo&source=bl&ots=lOtau8_A2t&sig=dHFQKRrEMXKMqSV8vMpqeNP9PD4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwivz5TC56XRAhWHNJQKHcqxB7cQ6AEIOzAE#v=onepage&q=Cateau%20Cambresis%20Compagnia%20di%20San%20Paolo&f=false p. 655.]</ref>。この銀行は[[対抗宗教改革]]を目的に設立され、1653年には息子[[カルロ・エマヌエーレ1世]]の庇護を受けてモンテ・ディ・ピエタをつくった。ハンブローズ銀行(現[[ソシエテ・ジェネラル]])の会長だった[[:en:Charles Hambro, Baron Hambro|チャールズ男爵]]が重役に入って<ref>R. M. Whiteside, ''Major Financial Institutions of Europe 1993'', Springer Science & Business Media, 2012, p. 146.</ref>、もう一つの[[宗教事業協会]]と呼ばれながら現代も活躍している。
 
メディチ家が登場する背景は締結後数世紀の世界情勢まで決定してしまった。[[ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策]]がメディチ家台頭へつながって、このスペイン・ドイツ・イタリア連合がイタリア戦争と[[宗教改革]]を並行させていた。1555年[[アウクスブルクの和議]]でカルヴァン派が否定された。翌年、カルヴァン派市民のいる[[ネーデルラント]]がスペイン領となった。そして1559年にカトー・カンブレジ条約が成った。ほどなく、フランス内で[[カトリーヌ・ド・メディシス|カトリーヌ・ド・メディチ]]が[[ユグノー戦争]]の主因となった。
 
1559年の和平を機会にサヴォイア家と結婚した[[エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公)|エマヌエーレ・フィリベルト]]は、7人の有力市民に[[:it:Compagnia di San Paolo|コンパーニア・ディ・サンパオロ]]という[[銀行]]をつくらせた<ref>Manfred Pohl, ''Handbook on the History of European Banks'', Edward Elgar Publishing, 1994, [https://books.google.co.jp/books?id=eXvfNDHpfWwC&pg=PA655&lpg=PA655&dq=Cateau+Cambresis+Compagnia+di+San+Paolo&source=bl&ots=lOtau8_A2t&sig=dHFQKRrEMXKMqSV8vMpqeNP9PD4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwivz5TC56XRAhWHNJQKHcqxB7cQ6AEIOzAE#v=onepage&q=Cateau%20Cambresis%20Compagnia%20di%20San%20Paolo&f=false p. 655.]</ref>。この銀行は[[対抗宗教改革]]を目的に設立され、1653年には息子[[カルロ・エマヌエーレ1世]]の庇護を受けてモンテ・ディ・ピエタをつくった。ハンブローズ銀行(現[[ソシエテ・ジェネラル]])の会長だった[[:en:Charles Hambro, Baron Hambro|チャールズ男爵]]が重役に入って<ref>R. M. Whiteside, ''Major Financial Institutions of Europe 1993'', Springer Science & Business Media, 2012, p. 146.</ref>、もう一つの[[宗教事業協会]]と呼ばれながら現代も活躍している。
 
== 脚注 ==