「西郷隆盛」の版間の差分

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=== 郡方書役時代 ===
[[弘化]]元年([[1844年]])、郡奉行・[[迫田利済]]配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。弘化4年([[1847年]])、郷中の二才頭となった。[[嘉永]]3年([[1850年]])、高崎崩れ([[お由羅騒動]])で[[赤山靭負]](ゆきえ)が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子・[[島津斉彬]]の襲封を願うようになった。
 
伊藤茂右衛門に[[陽明学]]、[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]](島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、[[近思録崩れ]]の秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を[[大久保利通|大久保正助]](利通)・[[税所篤|税所喜三左衛門]](篤)・[[吉井友実|吉井幸輔]](友実)・[[伊地知正治|伊地知竜右衛門]](正治)・有村俊斎([[海江田信義]])らとつくった(このメンバーが[[精忠組]]のもとになった)。
 
=== 斉彬時代 ===