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[[ファイル:Yukichi Fukuzawa.jpg|thumb|150px|「[[脱亜論]]」を発表した福澤諭吉]]
朴泳孝・金玉均ら独立党を全面支援してきた[[福澤諭吉]]は、この事件で朝鮮・中国に対して深い失望感を覚え、とりわけ開化派人士や幼児等も含むその近親者への残酷な処刑に強い衝撃を受けた。自身が主宰する[[1885年]](明治18年)[[2月23日]]・[[2月26日]]付の『[[時事新報]]』に「[[脱亜論#「脱亜論」掲載前の論説|朝鮮独立党の処刑]]」と題する[[社説]]には、その心情が吐露されている<ref name="un20"/>。そして、[[3月16日]]付『時事新報』には「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし(中略)、亜細亜東方の悪友を謝絶する」という有名な[[脱亜論]]を発表した<ref name="sasaki224"/><ref name="un20"/>。これは、[[ヨーロッパ]]を「文明」、[[アジア]]を「未開野蛮」とみて、日本はアジア諸国との連帯を考慮せずに西欧近代文明を積極果敢に摂取し、以後、西洋列強と同様の道を歩むべきだとする主張であり、従来の日・清・朝がともに文明化して欧米列強の侵略を阻止しようという考えから大きく変化した<ref name="un20"/>。さらに、[[8月13日]]には社説「[[脱亜論#「脱亜論」掲載後の論説|朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す]]」を掲載し、朝鮮がこのまま王室による専制国家であるよりは、むしろイギリスやロシアなどの「文明国」に支配された方が朝鮮人民にとって幸福であるという意見を表明するに至った<ref name="un20"/>。これは、いわば極論というべきものであったが、のちの日本の対外思想に少なからず影響をあたえたとされる<ref name="un20"/>。ただし、[[第二次世界大戦]]後、福澤の朝鮮論の代名詞として扱われがちな「脱亜論」は、当時にあっては取り立てて注目されるほどの論説ではなかったのであり、政変後の日清協調の時節にあっては「赤心を被て東洋将来の利害を談じ、両国一致して朝鮮を助け(以下略)」との社説も発表している<ref name="kinefuchi001">[[#杵淵|杵淵(1997)pp.1-3]]</ref><ref name="kinefuchi135">[[#杵淵|杵淵(1997)pp.135-148]]</ref>。
 
この政変は[[自由民権運動]]にも大きな影響をあたえ、1885年12月、自由党左派の[[大井憲太郎]]らが朝鮮にわたってクーデタを起こし、清国から独立させて朝鮮の改革を行おうとする[[大阪事件]]が起こっている<ref name="sasaki224"/>。