「ヴィトルト・ルトスワフスキ」の版間の差分

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60年代の作風により、国際的な名声はすでに決定的になったにもかかわらず、個人様式の深化を彼は常に考え続けた。1980年代は著名なクラシック演奏家からの委嘱が増えるにつれ、伝統的な作曲技法への傾斜がより顕著になり、通常の五線譜で作曲されるようになった。
 
「交響曲第三番」は[[ゲオルク・ショルティ|ショルティ]]の指揮と[[シカゴ交響楽団]]で初演され、未だ現代音楽に疎かった[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の聴衆は大絶賛で迎えた。しかし、この曲は既に[[オクター]]や三度[[音程]]に加えて4音[[ライトモティーフ]]まで出現し、ほとんどクラシックにしか聞こえないという批判の声も見られた。[[新ロマン主義]]全盛であった当時は、彼ですらもこの流行に順応する結果を招いたが、管弦楽法の冴えが衰えることはなく、かつ前衛イディオムは表層に現れないために人気は上がりつづけた。
 
[[クリスティアン・ツィマーマン]]の完璧な演奏マナーに支えられた「ピアノ協奏曲」や「交響曲第四番」も同路線で作曲されている。[[1993年]]の「[[ロサンジェルス・フィルハーモニック]]のためのファンファーレ」(Fanfare for Los Angeles Philharmonic)でも、金管の同音連打がかつての彼の様式を偲ばせるが、楽譜は定量記譜の中に収まっている。