「太刀光電右エ門」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
漆山更紗 (会話 | 投稿記録)
35行目:
 
== 来歴 ==
[[1897年]][[3月29日]]に[[北海道]][[空知郡]](現:北海道三笠市)で鉱夫の二男として生まれる。[[1912年]]の夏に[[太刀山峯右エ門]]一行が[[札幌市|札幌]]へ巡業に来た際に兄に付き添われて直接弟子入りを志願したが、小兵だったことで見込みが無いと判断され、諭された上に断られた。それでも政次少年は熱心に入門を志願したため、太刀山自ら「厳しい修行に耐えられるか」と問い、その様子を傍で見ていた[[代議士]]も口添えしくれたため、[[友綱部屋]]への入門を許可された。[[四股名]]は鋭い眼光をしていたことから「太刀光電右エ門」と命名された。
 
[[1913年]]1月場所で[[初土俵]]を踏み、短躯肥満ながら非常に柔軟で、相手と離れて組んでも左右どちらかでも投げを繰り出し、足癖も上手かった。気合十分で鋭い[[立ち合い]]を武器に順調に[[番付]]を上げ、[[1922年]]5月場所の千秋楽では太刀山の最後の取組で黒星を付けた[[大錦卯一郎]]に勝利し、太刀山と涙を流し合って喜んだ。なお、この場所後に[[三河島事件]]が勃発したことで大錦はこの一番が最後の土俵になり、「太刀山の最後の対戦相手となった大錦は、太刀山の弟子である太刀光との対戦が最後となる」という因縁めいた対決となった。当初は[[鞍ヶ嶽楯右エ門]]、[[太刀ノ海浪右エ門]]の方が出世すると思われていたが、その逆境を無類の稽古熱心で補い、二人が平幕で終わったのに対し、[[1923年]]1月場所では7勝1敗1分1休の好成績を残して同年5月場所で大関に昇進した。これによって大相撲史上初となる道産子大関となった。