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== 生涯 ==
[[源頼光]]9代の嫡孫であり、[[後醍醐天皇]]に仕える。[[元弘]]元年([[1331年]])の[[笠置山の戦い|後醍醐天皇笠置山挙兵]]の折には[[二階堂貞藤]]と戦い、これを退ける活躍を見せるも帝(みかど)の本隊が[[奇襲]]により総崩れとなると、やむなく軍勢を撤退した。[[鎌倉幕府]]滅亡後の[[建武の新政]]の折、勤士の功により[[摂津国]][[能勢郷]][[目代]]となるが、[[足利尊氏]]が帝に反旗を翻すと各地を転戦。[[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]])には山城八幡([[京都府]][[八幡市]])で[[北畠顕信]]とともに[[石清水八幡宮]]に布陣し[[高師直]]の大軍を迎え撃ち撃退したものの兵糧が尽きまた[[脇屋義助]]率いる[[越前国|越前]]からの援軍到着の見込みが立たない為に6月27日夜半に密かに八幡山を退き[[河内国]]に撤退する。[[興国]]元年/暦応3年([[1340年]])には[[後村上天皇]]の命により[[脇屋義助]]を補佐し、共に[[伊予国]]へ出兵して[[細川氏]]に戦いを挑んだ。緒戦は優勢に進めたものの兵力差が大きすぎるため敗北し、[[備前国]]に逃れた。
 
備前国では浜野([[岡山市]][[南区 (岡山市)|南区]]浜野)や網浜(岡山市[[中区 (岡山市)|中区]]網浜)付近を拠点とし、近隣の[[豪族]]を味方に付けて勢力を盛り返しつつあったところ、興国4年/康永2年(1343年)に[[赤松則村]]の軍勢が来襲し備前国網浜で1度は撃退した([[網浜の戦い]])が2度目の来襲時に裏切者がでて敗退し進退窮まり、かねてより孤忠ぶりに感心していた足利尊氏より降伏を勧められるものの受け入れずに使者を尊氏のもとへ派遣して厚意に感謝すると同時に[[摂津国]]にいる嫡男頼仲に「多田家は累世未だ武家に仕えたる先例が無い、もし将軍に仕えるなら氏を[[能勢氏|能勢]]に改めて仕えよ」と遺言し8月12日に自害した。
 
後にそのことを聞いた尊氏は頼貞の勤王心に感涙し、頼仲に能勢の所領を安堵するとともに備前17郷を与えたという。
 
(岡山人名事典(日本文教出版 (1978/02)p261-262)、松寿寺頼貞廟堂碑文、[[太平記]](巻第二十「八幡炎上の事」)、[[多田御家人由来傳記]]より)
 
== 脚注 ==