「甲申政変」の版間の差分

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[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]の結果、日清両国は[[軍事顧問]]の派遣中止、軍隊駐留の禁止、やむを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めた。これによって、1885年から1894年の日清戦争までの10年間、朝鮮に駐留する外国軍隊はなかった<ref name="kang233"/><ref name="o144"/>。しかし、それによって朝鮮の自立が確保されたわけではなく、甲申政変を武力でつぶした[[袁世凱]]は総理交渉通商事宣として漢城にいすわり、朝鮮の内政・外交に宗主権をかかげて介入した<ref name="kang233"/><ref name="o144"/>。また、朝鮮から日清軍が撤退したことは、朝鮮半島進出をねらう[[ロシア帝国]]をおおいに喜ばせた<ref name="o144"/>。メレンドルフは、元来は清国政府の推挙によって朝鮮政府の外交顧問となった人物であるが、こののちロシアに接近し、漢城条約の規定によって謝罪使として日本を訪れた際、駐日ロシア公使館の書記官スペールと会談を重ね、朝鮮がロシアから軍事教官をまねくことに合意した<ref name="o144"/>。さらに、金玉均が[[ウラジオストク]]を訪れた場合は身柄を朝鮮に引き渡すこと、第三国の朝鮮侵攻にはロシア軍が出動すること、朝鮮付近の海域はロシア軍艦が防衛することなどを骨子とする密約を結んだ<ref name="o144"/>。これは、閔氏要人が閔妃にはたらきかけて高宗からの黙認をあたえたものであったが、親清派の[[金允植]]や[[閔泳翊]]ら政府首脳は密約を否決してそれを無効化し、メレンドルフは外務協弁を解任された<ref name="o144"/>。朝鮮の政権中枢においては、このように、ロシアの力を利用して清国の支配から脱しようとする動きがみられた<ref name="o144"/><ref name="kasuya235">[[#糟谷|糟谷(2000)pp.235-239]]</ref>。
 
閔氏政権は、洋式学校、[[士官学校]]、[[汽船]]による物品の輸送、[[電報]]事業など開化政策を続けたものの、財源が関税収入と借款に依存しており、やがて借款の利払いが財政を圧迫して事業縮小や外国人教官への俸給支払いの遅延をまねいたため、開化政策は著しく停頓した<ref name="kasuya235"/>。また、閔氏政権の長期化は、官職売買と[[賄賂]]の横行をまねき、国内政治は腐敗した<ref name="kasuya235"/>。地方官も買官経費の回収や蓄財のため住民から不法な収奪をおこなうことが慢性化し、これに苦しんだ住民は各地で[[請願]]活動を起こし、[[1888年]]以降は毎年のように民乱がおこるようになった<ref name="kasuya235"・/>。
 
経済的には、日本への[[穀物]]輸出が活発化して農村はそれにより潤ったが、これは同時に米価高騰を引き起こしたため、飯米購買者である下層民の生活を悪化させた<ref name="kasuya235"/>。そのため、朝鮮の地方官はしばしば[[防穀令]]を発布して米穀の域外流出を禁止した<ref name="kasuya235"/>。これは朝鮮農民に前貸しして米を買い集めていた日本人米穀商とのあいだでトラブルに発展した([[防穀令事件]])<ref name="kasuya235"/>。