「共産主義者同盟」の版間の差分

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1958年12月、共産主義者同盟 (一次ブント)の結成大会議案では、「[[搾取]]、貧困、[[抑圧 (社会科学)|抑圧]]、服従の絶滅と人間の真の解放を意味する[[世界革命論|世界共産主義革命]]」、「大衆的な革命党の結成と[[プロレタリア独裁]]の実現」、「[[マルクス・レーニン主義]]の革命的伝統」などを掲げ、「今日すべての[[共産党|共産主義党]]は[[平和共存]]と[[一国社会主義論|一国革命]]の絶対化、世界革命の放棄においてその本質は同一」とし、[[日本共産党]]は「代々木官僚」による「裏切り的性格」、[[革命的共産主義者同盟]]は「革命的理論の欠如」と批判し、また「既存の一切の党に信頼をおかず」、「一枚岩の団結の神話を捨て」、「組織の前に[[綱領]]」ではなく「実践の火の試練の中で真実の綱領を作りあげねばならぬ」などと記した<ref>[http://www.geocities.jp/liberationsya/1b-gian.pdf 共産主義者同盟結成大会議案(1958年12月)]</ref>。
 
{{quotation|[[一国社会主義論|一国の社会主義建設]]の強行と[[平和共存]]政策によって、[[世界革命]]を裏切る[[日和見主義]]者の組織に堕落した[[日本共産党|公認の共産主義指導部]]([[スターリン主義]]官僚)と理論的、組織的に自らをはっきり区別し、それと非妥協的な闘争を行い、新しい[[インターナショナル (社会主義)|インターナショナル]]を全世界に組織するために努力し、世界革命の一環としての日本[[プロレタリア革命]]の勝利のために闘う|1959年8月 第3回大会で採択した規約 <ref>「わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集 三訂」(警備研究会、立花書房、2008年)p139</ref>}なお思想家の[[吉本隆明]]は、1960年『中央公論』4月号で、共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派に積極的に同伴することで通過した。吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。}
 
1966年、再結成された二次ブントの基本路線は (1)国際金融危機など世界[[資本主義]]の戦後体制は動揺を開始し、プロレタリア革命への現実的条件が形成されつつあり (2)その一環として日本の戦後民主主義体制も動揺を開始し、革命か反革命かの階級的死闘の時代への過渡的な前段階が形成されつつあり (3)日本のプロレタリア人民は「生活と権利の実力防衛」を反帝闘争として組織し、プロレタリア革命への展望を切り開いていくべきで (4)プロレタリア日本革命の勝利はプロレタリア世界革命への展望を開き (5)現代日本における革命党の意識性は、「反帝闘争をプロレタリア日本革命へ!」、「日本革命をアジア革命の勝利と世界革命の突破口とせよ!」などのスローガンにしめされる、であった <ref>[http://www.geocities.jp/liberationsya/nipon-s.pdf 『新版・日本の戦闘的左翼』小山弘健編 現代史研究所 1968年]p7-8</ref>。
 
なお思想家の[[吉本隆明]]は、1960年『中央公論』4月号で、共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派に積極的に同伴することで通過した。吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。
 
== 歴史 ==