「マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン」の版間の差分

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皇帝[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]([[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]]カール・アルブレヒト)と皇后[[マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ|マリア・アマーリエ]]の末子として、[[ミュンヘン]]で生まれた。
 
1765年1月、[[シェーンブルン宮殿]]で又従弟に当たる[[ローマ王]]ヨーゼフと結婚した。その7ヶ月後に舅[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]が崩御したため、夫とともに戴冠し、皇后となった(実権はヨーゼフの母皇太后[[マリア・テレジア]]が[[ウィーン]]の宮廷で掌握していた)。美男の夫を熱愛していたマリア・ヨーゼファだったが、ヨーゼフは最初の妻で美女だった[[マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ|イザベラ]]を終生愛し続け、彼女には目もくれなかったため、結婚生活は不幸だった。肖像画からは想像できないが、ヨーゼフ2世は彼女のことを「背が低く太っている。歯並びはゾッとするほどで、全身が吹き出物でいっぱいだ」と記している。ヨーゼフの妹である[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]は、兄のヨーゼファに対する冷酷な仕打ちについて、「もし私が兄の妻だったら、絶対に耐えられない」と記している。
 
マリア・ヨーゼファは[[天然痘]]に罹患した。姑のマリア・テレジアは見舞いにいったが、ヨーゼフは気にもとめなかった。1767年5月に急逝したが、ヨーゼフはヨーゼファの葬式にも出席しなかった。亡骸はカプツィーナー霊廟に葬られた。ヨーゼフは再婚しないと宣言し、それを実行した。これにより、[[ハプスブルク家]]のヨーゼフに次ぐ後継者は、マリア・テレジアの次男である[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト]]と目されるようになった。