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{{otheruseslist|1885年の自由民権運動の事件|1957年の創価学会の事件|大阪事件 (創価学会)|明治時代の公害事件|大阪アルカリ事件|2010年の大阪市西区の事件|大阪2児餓死事件}}
[[ファイル:Kentaro Ooi.JPG|170px|right|thumb|大井憲太郎]]
'''大阪事件'''(おおさかじけん)とは、[[1885年]]([[明治]]18年)に起こった[[自由民権運動]]の激化運動の一つである。
 
== 概要 ==
この事件は[[1885年]]12月に[[大阪市|大阪]]で起こった[[自由民権運動]]の激化運動事件の一つで、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]左派のくわだてた[[朝鮮]]に政変を起こし、日本国改革に結びつけようという発想に基づくもの運動であったる<ref name="gotoh221">[[#後藤|後藤(1974)p.221]]</ref>
 
[[1882年]](明治15年)の[[壬午軍乱]]を契機として朝鮮問題が複雑化を呈するとともに、自由党首脳部もこれに強い関心を寄せ、とくに[[独立党]]の[[金玉均]]らを支援する態度をとった<ref name="gotoh221"/>。[[1884年]](明治17年)、[[後藤象二郎]]は[[板垣退助]]とともに資金を[[フランス]]公使にあおぎ、朝鮮の宮廷改革運動にのりだそうとした<ref name="gotoh221"/>。ところが、この動きを察知した政府は機先を制して独立党人士によるクーデタを支援した。しかし、このクーデタは[[清国]]の介入によってわずか3日で挫折した([[甲申政変]])<ref name="gotoh221"/>。
[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]左派の活動家であった[[大井憲太郎]]を中心に、[[福田英子|景山英子]]や[[小林樟雄]]、[[磯山清兵衛]]らをはじめとする旧自由党の一部が参加した。[[朝鮮半島]]に渡ってクーデタをおこし、甲申政変でクーデタに失敗した独立党の[[金玉均]]らを支援して、朝鮮に立憲体制を築き、[[清国]]から独立させて改革を進めようという計画が立てられた<ref name="sasaki227">[[#佐々木|佐々木(1992)pp.227-229]]</ref>。
 
[[ファイル:Hideko Fukuda cropped.jpg|thumb|170px|「東洋の[[ジャンヌ・ダルク]]」といわれた景山英子(福田英子)]]
国内における自由民権運動が政府の弾圧のため閉塞したため、海外に進出することで日本の国威を発揚し、また国内改革をも図ろうと考えたものである。[[爆弾]]を製造したり、資金を集めるため[[強盗]]も行われたが、実行前に計画が発覚し、139人が逮捕された。[[1887年]](明治20年)、大阪市[[天王寺区]]にある[[壽法寺]]で大阪事件関係者の慰霊祭が行われ、[[1889年]](明治22年)2月、[[大日本帝国憲法]]発布の[[恩赦]]によって大井らは釈放された<ref group="注釈">1887年の慰霊祭は、この事件で逮捕された[[福島県]]出身の加藤宗七が送検前に、[[群馬県]]出身の山崎重五郎、[[長野県]]出身の土屋市助、[[茨城県]]出身の川北虎之助がそれぞれ予審中に病死しており、この4人のためにひらかれたものである。</ref>。[[福田英子]](景山英子)の著書、『妾の半生涯』には、このときの収監の状況が描かれている<ref group="注釈">景山は旧姓。万朝報記者福田友作と結婚して福田英子となった。福田とは3人の子をもうけた。大井憲太郎と内縁関係にあったこともある。</ref>。
自由党左派の活動家であった[[大井憲太郎]]らは、このような自由党首脳部や日本政府による朝鮮の内政改革策とは異なった立場から出発し、朝鮮人民による独立の闘いと日本国内の自由民権運動を結びつけて両国にまたがる一種の民主主義革命をめざした<ref name="gotoh221"/>。大井憲太郎を中心に、[[福田英子|景山英子]]や[[小林樟雄]]、[[磯山清兵衛]]・[[新井章吾]]・[[稲垣示]]ら旧自由党の一部は、同志を率いて[[朝鮮半島]]に渡り、クーデタをおこして事大党政権を倒し、独立党政権を打ち立てようと準備をすすめた<ref name="gotoh221"/>。かれらは、甲申政変でクーデタに失敗した独立党の[[金玉均]]らを支援し、朝鮮に立憲体制を築いて、[[清国]]から独立させて改革を進めようという計画を立てたのである<ref name="sasaki227">[[#佐々木|佐々木(1992)pp.227-229]]</ref>。国内における自由民権運動が政府の弾圧のため閉塞したため、海外に進出することで日本の国威を発揚し、また国内改革をも図ろうとしたものであった<ref name="gotoh221"/>。
 
国内における自由民権運動が政府の弾圧のため閉塞したため、海外に進出することで日本の国威を発揚し、また国内改革をも図ろうと考えたものである。[[爆弾]]を製造したり、資金を集めるため[[強盗]]も行われたが、磯山の変心によって実行前に計画が発覚し、139人が逮捕された<ref name="gotoh221"/>。大井・小林・磯山は[[外患罪]]で軽禁獄6年の刑に処せられ、その他多くの人に[[刑罰]]があたえられた。[[1887年]](明治20年)、大阪市[[天王寺区]]にある[[壽法寺]]で大阪事件関係者の慰霊祭が行われ、[[1889年]](明治22年)2月、[[大日本帝国憲法]]発布の[[恩赦]]によって大井らは釈放された<ref group="注釈">1887年の慰霊祭は、この事件で逮捕された[[福島県]]出身の加藤宗七が送検前に、[[群馬県]]出身の山崎重五郎、[[長野県]]出身の土屋市助、[[茨城県]]出身の川北虎之助がそれぞれ予審中に病死しており、この4人のためにひらかれたものである。</ref>。[[福田英子]](景山英子)の著書、『妾の半生涯』には、このときの収監の状況が描かれている<ref group="注釈">景山は旧姓。万朝報記者福田友作と結婚して福田英子となった。福田とは3人の子をもうけた。大井憲太郎と内縁関係にあったこともある。</ref>。のちに[[社会主義|社会主義者]]となった福田英子は、この事件を回想してあまりに国権主義的であったと批判している<ref name="gotoh221"/>。
 
[[北村透谷]]は自由民権運動に参加していたが、大阪事件の際強盗に誘われたため、悩んだ末、運動を離脱した。しかし、のちに発表した長詩「楚囚之詩」には、この事件のおもかげがあるといわれている。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[佐々木克後藤靖]]|year=19921974|month=11|titlechapter=日本近代の出発大阪事件|seriestitle=集英社版日本歴史17大辞典 第2巻|series=|publisher=集英[[河出書房新]]|isbn=4-08-195017-2|ref=佐々木後藤}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐々木克]]|year=1992|month=11|title=日本近代の出発|series=集英社版日本の歴史17|publisher=[[集英社]]|isbn=4-08-195017-2|ref=佐々木}}
 
== 関連項目 ==