「残留ロシア人 (南樺太)」の版間の差分

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南樺太は[[日露戦争]]の[[平和条約|講和条約]]であるポーツマス条約により日本に割譲された。それまで住んでいたロシア国民は、そのまま残留するか、北サハリンやロシア本土に引き揚げるか二者択一を迫られた。大半の住民は引き揚げを選んだが、少数の者は残留を選んだ。これが樺太における残留ロシア人の起源である。
 
残留ロシア人は財産権が保証されたため、これまで通りの生活を送ることができた。まず、樺太の戸籍については「土人戸口規則」(1908年樺太庁令第17号)が適用され「樺太土人」として扱われ、戸籍法上は日本人とは区別された。
 
彼らの多くは自家製のパンを焼き、それを「ロシアパン」と名づけて駅前で販売していた。このロシアパンは当時の樺太土産として知られており、ロシアパンの売り声は樺太の風物詩であった。
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やがて残留ロシア人は日本人社会に溶け込むようになり、日本人経営の企業や商店に勤務する者も現れた。中には[[マルキャン・ボリシコ]]のように日本人女性を妻とし、牧場を経営して日本人を雇うほどの名士も出現した。
 
しかし、[[1945年]]8月の[[ソ連対日参戦]]とともに[[赤軍]]が樺太に侵攻したことで、彼らの生活も大きな転機を迎えた。彼らの多くは(共産化により)これまでの財産を失い、中には政治犯として処分される者もいたが、一方で日本本土に移住・亡命する者もいた。やがて、ロシア本土から移住してきた新住民と同化し事実上消滅した。なお、日本本土に移住した南樺太出身者は、日本国籍を得たものであっても「土人戸口規則」(1908年樺太庁令第17号)が適用され「樺太土人」として扱われてて戸籍法上は日本人とは区別されたため、在日朝鮮・台湾人同様、参政権を停止された([[戸籍法#旧併合地出身者参政権との関係]])。
 
== 出自 ==