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Naoto2149 (会話 | 投稿記録)
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この事件の直後、キューバ政府は先の革命が[[社会主義革命]]であることを宣言し、[[ソビエト連邦|ソ連]]への接近を強め、その翌年秘密裡に軍事協定を結び、核ミサイルを持ち込んだ結果[[1962年]]10月に[[キューバ危機]]が起きることになる。
 
=== キューバ革命後の両国関係 ===
[[File:CheyFidel.jpg|thumb|right|フィデル・カストロ(右)と[[チェ・ゲバラ]](左)(1961年)]]
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[[1961年]][[1月3日]]にはキューバに対して国交断絶を通告した<ref group="注">制裁は[[国際連合総会]]からの非難と再三の解除要求決議にも拘らず50年以上解かれなかったが、[[2015年]][[7月]]に国交を回復した。</ref>。この間に大量のキューバからの避難民が[[フロリダ州]][[マイアミ]]に集まり、その数は10万人に達した。
 
=== アイゼンハワー政権のカストロ転覆計画 ===
[[File:Eisenhower in the Oval Office.jpg|thumb|right|180px|アイゼンハワー大統領]]
これに先立つ[[1959年]][[10月]]に、ニッケル鉱山などのアメリカの鉱業利権をカストロ政権が接収し始めると、アイゼンハワー大統領はCIAに対してキューバへの海空からの破壊活動、キューバ国内の反革命勢力への支援、カストロ体制の打倒工作、カストロ暗殺計画などを承認して秘密裏に転覆計画を開始した<ref>井高浩昭 著「チェ・ゲバラ」 128P</ref>。母国を脱出してきた[[亡命]]者1,500人をゲリラ軍として組織化し、CIAの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるため、1954年の[[PBSUCCESS作戦]]により親米軍事政権が成立していた[[グアテマラ]]の基地においてゲリラ戦の訓練を行った。退任間近だったアイゼンハワー大統領はやがてキューバ問題から手を引き、その後は[[リチャード・ニクソン]]副大統領やCIAの[[アレン・ダレス]]長官らがこの作戦計画を進めた。
 
その間、作戦は当初のゲリラ戦から通常戦に変更する決定が下された。そして、兵員数と物資で圧倒的に劣る反カストロ軍がキューバ政府軍に勝つために、アメリカ軍の正規軍の介入が計画に組み入れられた。1960年11月に大統領選挙が行われ、[[1961年]][[1月20日]]に[[ジョン・F・ケネディ]]が大統領に就任した。
 
=== CIAの計画 ===
[[File:President Kennedy and Secretary McNamara 1962.png|thumb|right|[[ジョン・F・ケネディ]]大統領と[[ロバート・マクナマラ]]国防長官]]
[[File:BayofPigsPrep3.jpg|thumb|right|ピッグス湾上陸の予行演習を行うキューバ人亡命者]]
大統領選挙に当選したばかりのケネディは、就任前にCIAのダレス長官からこの作戦計画の説明を受けた時はことの重要さと大胆さに仰天した。その後レムニッツァー統合参謀本部議長とバーグ海軍作戦部長の専門的意見を聞いたがいずれも成功する作戦として問題ないというものであった。
 
1961年4月4日<ref group="注">落合信彦著「2039年の真実」では4月4日に開催したことになっているが、フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻では4月5日に開催したことになっている。またこの作戦計画にゴーサインを出したのは3月11日で、4月5日に会議を開き、4月7日にケネディはトルーマン政権で国務長官だったアチソンに、このキューバでの作戦計画を明らかにしている。それに対してアチソンは衝撃を受けて「クレイジーだ」と語っている。「ベルリン危機1961」上巻 219-220P </ref>、キューバでの作戦行動について国務省で最後の会議が開かれた。大統領の他に[[ディーン・ラスク|ラスク]]国務長官、[[ロバート・マクナマラ|マクナマラ]]国防長官、ディロン財務長官、フルブライト上院外交委員長、シュレジンジャー大統領顧問、ダレスCIA長官、カペル副長官、ピッセル担当官、そしてレムニッツァー統合参謀本部議長などの顔ぶれであった<ref>落合信彦著「2039年の真実」167P</ref>。

ダレスCIA長官と作戦担当のリチャード・ピッセルがこの作戦の内容を説明した。まずアメリカが介入するのではなくカストロ政権が成立後にアメリカに避難した亡命者から約1400人がグアテマラでCIAによる軍事訓練を受けており、この1400人が陸海共同でキューバへの上陸作戦を展開し、上陸が成功すればキューバ国内の反政府抵抗組織2500人と同調する反カストログループ約2万人が行動を起こし、これに鼓舞されて情報機関の推定で総人口の25%を占めるカストロに反感を示す大衆が蜂起する、というものだった<ref>フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻 243P</ref>。反カストロ軍の空軍部隊がカストロ政府軍の飛行場を爆撃して最初に制空権を奪う。カストロ政府の空軍は経験のあるパイロットがおらず、全く組織化されていないので二度の爆撃で十分であり、この計画の成功は空軍の無力化にかかっている。そしてカストロ政府の空軍が事前爆撃で完全に破壊されると海からの上陸後にまず「キューバ革命委員会」が臨時政府樹立を宣言し、もしうまくいかなかった時は近くの山に逃げ込みゲリラ戦術を展開する、このピッセルの説明に反対を表明したものはいなかった。
 
ケネディはあくまでアメリカの介入には慎重であった。当時ベルリンが危機的な状況で、キューバを口実にフルシチョフがベルリン問題で軍事的行動を起こすことを恐れていた。しかしダレス長官の正規軍を介入させないとする説明で(実際はCIAは反カストロ軍にアメリカ軍の応援を確約していた)、ケネディは作戦の実行を承認したがアメリカの直接の関与が露見しないように、最初の空襲での爆撃機の数を減らし、その際に上陸地点の変更(夜間上陸に適しているという理由で)を命じた。これは結果として作戦に大きな障害となった<ref>フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻 243P</ref><ref group="注">「[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]副大統領、[[ディーン・ラスク|ラスク]]国務長官、[[ロバート・マクナマラ|マクナマラ]]国防長官、[[ロバート・F・ケネディ]]司法長官らに説得され、作戦の実行を決意した」との言説があるが、陸海空三軍の最高司令官である大統領が閣僚に説得されて作戦実行を決めたなど、およそ奇妙な話である。統合参謀本部議長やCIA長官が説明して大統領が裁可するのであって、合議制のもとで決定しているのではない。この時も重い疑念を持ちながらも前任のアイゼンハワーが進めた作戦であり、実行はケネディ大統領自身の判断であった。そしてこの苦い経験が、翌年秋のキューバ危機で最後の土壇場で空爆支持が閣僚も含めて多数を占めても、大統領が1人反対して強いリーダーシップを発揮することとなり、後にケネディへの高い評価となって表れている。</ref>。また上陸地点がピッグス湾に変更になったが、そこにサンゴ礁があることを誰も予期しておらず、また上陸後に苦戦となった場合は反カストログループがいるエスカンプライ山脈に逃げ込む予定であったが、上陸地点がピッグス湾に変更してそれが不可能となったのである<ref>フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻 241-243P</ref>。CIAは作戦失敗のリスクを過小評価していた。
 
=== 爆撃の失敗 ===
[[File:Douglas A-26C Invader 435440 Tamiami 26.04.09R.jpg|thumb|right|キューバ政府軍機に偽装した[[アメリカ空軍]]の[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[A-26 (航空機)|A-26]][[爆撃機]]]]
[[1961年]][[4月15日]]朝6時頃に、反カストロ軍はキューバ政府軍機に偽装した[[アメリカ空軍]]の[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[A-26 (航空機)|A-26]][[爆撃機]]によりキューバ軍基地を[[空襲]]した。この日キューバ国籍のマークを付けた8機がニカラグア東岸プエルト・カベサスにある秘密のCIA航空基地から発進し、上陸作戦支援のための予備的攻撃を加えたが、結果は政府軍が所有する36機の戦闘機のうちわずか5機を破壊するに留まった。最初の空爆でキューバ空軍機を壊滅して制空権を反カストロ軍が確保するはずが、空爆が不十分で制空権を奪えず、これが2日後に政府軍の空襲で上陸作戦に支障をきたすこととなった。
 
最初の空爆でキューバ空軍機を壊滅して制空権を反カストロ軍が確保するはずが、空爆が不十分で制空権を奪えず、これが2日後に政府軍の空襲で上陸作戦に支障をきたすこととなった。数時間後にはキューバ外相ラウル・ロアがニューヨークの国連本部でアメリカの仕業として非難した。
 
これと並行して、アメリカ海軍空母「[[エセックス (空母)|エセックス]]」は、2週間の通常訓練航海の名目でフロリダ沖を航行した。この時、エセックスは12機の[[ダグラス]][[A-4 (航空機)|A-4D2スカイホーク]]を搭載していた。A-4は20ミリ機銃で武装されており、数日後には識別標識は機体と同じグレーの塗装で塗りつぶされ、「戦闘哨戒飛行」のため昼夜分かたず飛行するようになった。乗員のほとんどには知らされていなかったが、一連の行為はピッグス湾事件で出動した爆撃機護衛のための任務であった。
 
=== 上陸作戦の実行 ===
[[File:A4D-2 Skyhawks of VA-34 in flight over USS Essex (CVS-9) during the Bay of Pigs Invasion in April 1961.jpg|thumb|ヒロン浜沖合の上空を飛行する空母「エセックス」のダグラスA-4D2]]
続いて[[4月17日]]にピッグス湾(コチノス湾)ヒロン浜への上陸を開始した。グアテマラで武器の供与を受け訓練されて上陸した反カストロ軍「二五〇六部隊」は1500人以下にすぎず、政府軍が約20万人で迎え撃った。また制空権が確保されず、政府軍の[[ロッキード]]T33ジェット機から爆撃を受けて武器弾薬や食糧そして医療品などを積んだ2隻の物資補給船が撃沈されるなど[[補給]]経路が早々に破壊されたことで、弾薬・食糧・医療品が早く尽きてヒロン浜に閉じ込められて劣勢に立たされた。
 
窮地に立たされたCIAと軍は、ケネディ大統領に上陸部隊を救うためにアメリカ軍の直接介入を求め、かねてからヒロン浜の沖合に待機していた「エセックス」からのジェット戦闘機による支援を求めたのであった。しかし最終的に大統領はこれを拒否した。
 
窮地に立たされたCIAと軍は、ケネディ大統領に上陸部隊を救うためにアメリカ軍の直接介入を求めた。ヒロン浜の沖合に待機した空母からジェット戦闘機の出撃を求めたのであった。しかし大統領は拒否した。その後、アメリカ政府内が混乱してケネディ大統領の命令によりアメリカ軍の[[戦闘機]]による次の爆撃機への援護に出発したが、時差を計算せず正確な時刻が明確でないままに先に爆撃機が飛び立ち、援護は成功しなかった。<ref>ドン・マントン、デイヴィッド・A・ウェルチ共著「キューバ危機」47P</ref>。そして[[4月19日]]に完全に撃退されて政府軍に投降し114名が戦死、1189名が捕虜となって侵攻作戦は大失敗に終わった。
 
=== 敗因 ===