「崇福寺 (福岡市)」の版間の差分

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*[[1586年]]([[天正]]14年)、[[島津氏]]と[[大友氏]]の間でおこなわれた[[岩屋城の戦い]]の際に焼失するも再建される。
 
*[[1600年]]([[慶長]]5年)、[[京都]][[大徳寺]]住持を務めた[[春屋宗園]]の請を受け、[[福岡藩]]初代藩主・[[黒田長政]]によって現在地の福岡市千代町に移転、立開基された。これ以降、福岡藩主[[黒田氏]]の菩提寺として庇護を受ける事となる。境内北側には藩祖[[黒田孝高]]や長政ら藩主代々の墓所がある
[[黒田氏]]の菩提寺として庇護を受けることとなる。境内には[[黒田孝高]]や長政らの墓所がある。
 
*[[1612年]](慶長17年)、博多豪商の[[島井宗室]]の寄進により[[塔頭]][[瑞雲庵]]が再建され、[[江月宗玩]]が開山。
 
*[[1624年]]([[寛永]]元年)には長政から350石を寄進される。
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*[[明治|明治時代]]、[[廃仏毀釈|廃仏毀釈運動]]の煽りを受けて荒廃する。
 
*[[1895年]](明治28年)、渡辺玄外が住職となって境内が再整備される。この時、際に時の旧福岡藩黒田家当主であった[[黒田長成]]侯爵が寺名を[[揮毫]]している。
 
*[[1945年]]([[昭和]]20年)[[6月19日]]、宗室と並ぶ博多豪商[[神屋宗湛]]ゆかり所縁の茶室で国宝であった「[[湛浩庵]]』(戦前は[[国宝]]に指定されていた)など、多くの伽藍がアメリカ軍の空襲で焼失する
 
*[[1950年]]([[昭和]]25年)戦後荒廃していた福岡藩黒田家墓所を整備、改葬。当初の五分の一の規模に縮小され、新たに土を盛り墓所を築造。土台に墓碑のみを整備した。当初は歴代藩主の埋葬地には御霊屋、石塔、灯篭他、二十数基の墓碑堂塔があったが風化や空襲などで焼失。
 
*[[1963年]]([[昭和]]38年)元国宝の[[湛浩庵]]宗湛庵として復元され
 
*[[2005年]]([[平成]]17年)[[5月9日]]、寺の修行僧によって放火され、隠寮や書院など3棟700平方メートルが全焼した。
 
*[[2014年]]([[平成]]26年)境内にある歴代[[福岡藩]]主[[黒田氏]]の墓所が黒田家16代、長高氏より[[福岡市]]に寄贈され、移管された。市の道路拡張工事に伴い山門前の参道を整備、隣に自動車専用道路も新たに整備され、饅頭店・参拝用品店などは境内へ移転した。
 
== 逸話 ==
崇福寺には[[讃岐]][[丸亀藩]]主[[京極高豊]](きょうごくたかとよ)正室、市子(松壽院)が寄進した[[荘厳]]が伝わる。これは市子の母である[[前橋藩]]主[[酒井忠挙]](さかいただたか)正室、宝厳院筑姫(3(3代福岡藩主[[黒田光之]]の娘)が逝去した折、亡き母の実家である黒田家が、崇福寺にて法要を行った際に寄進したものである。この荘厳具は母と娘の絆を伝える貴重な物である。
 
== 文化財 ==