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TempuraDON (会話 | 投稿記録)
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1937年(昭和12年)[[日中戦争]]開戦。[[日本共産党]]員である杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。妻を置いて1937年(昭和12年)暮れの12月27日、岡田嘉子と[[上野駅]]を出発。北海道を経て翌1938年(昭和13年)1月3日、2人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。この件について、のちに[[宮本顕治]]が、1932年に[[今村恒夫]]と杉本を[[コミンテルン]]との連絡のためにソ連へ派遣しようという計画があり、二人は[[小樽]]まで行ったが、船がうまく調達できずに引き返したことがあったと語っている。<ref>「小林多喜二とその戦友たち」(『[[文化評論]]』1973年5月号)</ref>。杉本はソ連在住だった演出家の[[佐野碩]]や[[土方与志]]を頼るつもりであったといわれる。だが佐野と土方の二人は前年の8月に[[大粛清]]に巻き込まれて国外追放処分になっていたが、杉本はそれを知らなかった。この点について、[[千田是也]]は「自分たちの[[新築地劇団]]のグループは前年9月にその事実を知っていたが、当時新築地劇団と演劇理論などで対立していた[[新協劇団]]の杉本はこの事実を知らなかった」と後に述懐している[http://homepage3.nifty.com/katote/MADO.html]。
 
この一件は、駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。この事件を機に日本では1939年(昭和14年)に樺太国境に近づくことを禁じた[[国境取締法]]が制定された。しかし、不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で岡田は杉本と離された。時は[[大粛清]]の只中であり、杉本と岡田は[[スパイ]]として捕らえられ、[[GPU]](後の[[ KGB]])の取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。
 
杉本は、ソ連当局の[[拷問]]を伴った取り調べに「自分は[[フセヴォロド・メイエルホリド|メイエルホリド]]に会いに来たスパイで、メイエルホリドの助手である佐野もスパイである」という虚偽の供述を強要された。杉本は後の[[軍事法廷]]ではこの供述を虚偽と語り、「そのような嘘をついたことを恥ずかしく思う」と述べた(武田、2000年および下記外部リンク参照)が、スパイ容疑で[[1939年]]に[[銃殺刑]]に処せられた。