「ジミー・ツトム・ミリキタニ」の版間の差分

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== 経歴 ==
母国日本の教育を受けるため生後3ヶ月で帰国<ref name="ritsumei" />。母の故郷[[広島県]][[五日市町 (広島県)|五日市町]](現[[広島市]][[佐伯区]])で18歳まで育つ<ref name="ritsumei" />。[[軍国主義]]が強まる日本で[[海軍兵学校 (日本)|兵学校]]に行くことを拒否。1938年、絵描きになる夢を抱いて自由の国・アメリカへ再び戻る。しかし[[第二次世界大戦|第二次大戦]]中の1942年には大統領令により、米[[国籍]]を持つにも関わらず、[[日系人収容所所在地|ツールレイク]]の[[日系人の強制収容|日系人の強制収容所]]に送られた。そこで勧められるままに[[アメリカ合衆国|米国]][[市民権]]を放棄、終戦後の1947年まで約5年間、数ヶ所の収容所に拘留され続けた。市民権はその後も回復されず、働き場を得られず各地を放浪。1950年代始めに[[ニューヨーク市|ニューヨーク]]に流れ着いた。ここで仏教会の援助を受け[[コック (職業)|料理人]]として1980年代後半まで約30年間、東海岸を渡り歩きレストラン等で働く。1959年に市民権は回復したが、引越しを繰り返していたため通知は届かなかった。
 
1980年代後半、雇用主が亡くなり突然住む場所も職も失う<ref name="ritsumei" />。ニューヨークの[[グリニッジ・ヴィレッジ]]の[[W:Washington Square Park|ワシントン・スクエア・パーク]]で[[ホームレス]]のような生活をしながら、路上でボールペンなどで描いた猫の絵を売る。再び芸術家を目指すが路上生活は長きに及んだ。2001年、ミリキタニの絵を買ったことが縁で[[映画監督]]の[[リンダ・ハッテンドーフ]]と知り合い、ミリキタニの半生と二人の交流を描いた[[ドキュメンタリー映画]]『ミリキタニの猫([[:en:The Cats of Mirikitani|The Cats of Mirikitani]])』が製作された<ref name="ritsumei" />。本作品は世界各国の映画祭で高い評価を受け数多くの賞を受賞している<ref name="kaze" /><ref name="ritsumei" />。