「アウルス・アティリウス・カラティヌス」の版間の差分

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紀元前249年、[[ドレパナ沖の海戦]]で[[プブリウス・クラウディウス・プルケル]]が敗北し、それに続いて[[ルキウス・ユニウス・プッルス]]の艦隊も嵐とカルタゴ軍の攻撃で壊滅した。プルケルは120,000[[アス (青銅貨)|アス]]の罰金を科され、プッルスは自殺した。軍の指揮を執る執政官がいなくなったため、プルケルはマルクス・クラウディウス・グリキアを独裁官に指名したが、グリキアはプルケルの元解放奴隷であり元老院議員でもなかったために直ちに解任された。代わってカラティヌスが独裁官に選出され、軍を率いてシケリアに向かった。これは独裁官がイタリア半島外に出征した最初の例であった。しかし、シケリアで特筆すべきような勝利は得られなかった。
 
紀元前247年にはケンソルに選出された。紀元前241年に再びケンソルに選出されたがこれは[[アエガテス諸島沖の海戦]]の勝利に対する凱旋式を[[プロコンスル]]の[[ガイウス・ラウタティウス・カトゥルス]]とプラエトルの[[クトゥス・ァレリウス・ファルト]]のどちらが行うかを調停するためのものであり、カラティヌスはカトゥルスを選んでいる<ref>[[:en:Valerius Maximus|Valerius Maximus]] ii. 8. § 2., as cited in [[Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Smith]])</ref>。但し、ローマ市民は実際に艦隊を率いた(カトゥルスは怪我のため海戦には参加していない)ファルトの栄誉を讃えることも望んだため、結局はファルトも凱旋式を行った
 
カラティヌスはフォルム・ホリトリウムのスペース神(若者の希望と安全を司る女神)の神殿とカピトリヌスの丘の[[フィデース]]神(信義・忠誠・誠実・信仰の女神)の神殿を献納したと言われている<ref>Smith provides the bare facts: "Beyond the fact that he built a temple of Spes nothing further is known about him. (Cic. Ue Ley. ii. 11, [[De Natura Deorum|De Nat. Deor.]], ii. 23; Tacit. Ann." Are the details from Munzer?</ref>。