「ウディ・アレン」の版間の差分
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Nobuo Osugi (会話 | 投稿記録) |
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| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 = Harlene Rosen(1956年 - 1962年)<br />[[ルイーズ・ラサー|ルイーズ・ラッサー]](1966年 - 1969年)<br />[[スン=イー・プレヴィン]](1997年 - )
| 著名な家族 = [[レッティ・アロンソン]](妹)
| 事務所 =
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| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール名誉賞]]'''<br />[[第55回カンヌ国際映画祭|2002年]] 長年の功績に対して
| ヴェネツィア国際映画祭 ='''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />1995年 長年の功績に対して
| ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞]]'''<br />[[第25回ベルリン国際映画祭|1975年]] それまでの作品に対して
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 脚本賞|脚本賞]]'''<br />[[第3回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1977年]]『[[アニー・ホール]]』<br />[[第12回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1986年]]『[[ハンナとその姉妹]]』
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第43回ニューヨーク映画批評家協会賞|1977年]]『[[アニー・ホール]]』<br />[[第45回ニューヨーク映画批評家協会賞|1979年]]『[[マンハッタン (映画)|マンハッタン]]』<br />[[第52回ニューヨーク映画批評家協会賞|1986年]]『[[ハンナとその姉妹]]』<br />'''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 脚本賞|脚本賞]]'''<br />[[第43回ニューヨーク映画批評家協会賞|1977年]]『[[アニー・ホール]]』<br />[[第51回ニューヨーク映画批評家協会賞|1985年]]『[[カイロの紫のバラ]]』
| セザール賞 = '''外国映画賞'''<br />1979年『[[マンハッタン (映画)|マンハッタン]]』<br />1985年『[[カイロの紫のバラ]]』
| エミー賞 =
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1977年『[[アニー・ホール]]』<br />1986年『[[ハンナとその姉妹]]』<br />'''[[英国アカデミー賞 脚本賞|脚本賞]]'''<br />1977年『[[アニー・ホール]]』<br />1979年『[[マンハッタン (映画)|マンハッタン]]』<br />'''[[英国アカデミー賞 オリジナル脚本賞|オリジナル脚本賞]]'''<br />1984年『[[ブロードウェイのダニー・ローズ]]』<br />1985年『[[カイロの紫のバラ]]』<br />1986年『[[ハンナとその姉妹]]』<br />1992年『[[夫たち、妻たち]]』
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'''ウディ・アレン'''(Woody Allen, [[1935年]][[12月1日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[俳優]]、[[脚本家]]、[[小説家]]、[[クラリネット]]奏者である。日本語では「ウッディ・アレン」と表記される場合もある。
[[アカデミー賞]]に史上最多の24回ノミネートされ、[[アカデミー監督賞|監督賞]]を1度、[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]を3度受賞している。身長160[[センチメートル|cm]]。本名はアラン・スチュアート・コニグズバーグ({{en|Allan Stewart Konigsberg}})<ref name="birth name">{{
== 経歴 ==
=== 少年時代 ===
ウディ・アレンは、[[ニューヨーク]]の[[ブロンクス区]]で、ロシア系=オーストリア系[[ユダヤ人]]の家庭に生まれた<ref name="info">{{
ゆえにアレンの幼年期は主に女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものだった。また、母親は時々アレンに対して激しい叱責(時には手も出る)を行った。妹のレティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アレンは「大事にされている、愛されている」という感情が持てなくなった。ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アレンはコミックや映画、[[ジャズ]]に傾倒するようになっていった。
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コニグズバーグ家は正統的な[[ユダヤ教徒]]だったので、[[ユダヤ教]]の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間もの間ヘブライ語学校に通うことになった<ref>The principal of P.S. 99 was Mrs. Eudora Fletcher; Allen has used her name for characters in several of his films.</ref>。これは宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。[[パブリック・スクール]]卒業後、[[1949年]]にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「Red」。アレンはカード・マジックに傾倒した。
16歳の時に、アレンはマジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつけた。同級生の前でマジックを披露しているうちに、「面白いヤツ」という評判が立ち<ref name="zone">{{
=== ギャグ・ライター ===
[[1952年]]、ハイスクール在学中に、アレンはPRの仕事をしている従兄や『[[ニューヨーク・デイリー・ミラー]]』、『[[ニューヨーク・ポスト]]』などに[[ギャグ]]を送り始めた。この頃から、筆名として「ウディ・アレン」(極短期間「ヘイウッド・アレン」とも)を名乗り始めた。数々のギャグはコラムニストの手によって誌上で紹介され人気を博した。
これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アレンはアルバーのもとで「ウディ・アレン」として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった<ref name="timemag">{{
=== コメディアンとして ===
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=== 家族 ===
映画で共演した[[ダイアン・キートン]]と付き合っていたが、長く続かず破綻。その後、[[ミア・ファロー]]と同居するようになるが、彼女の養子の[[大韓民国|韓国]]人女性[[スン=イー・プレヴィン|スン・イー]](当時21歳)との交際が発覚し、ミアと訴訟を起すこともあった。ウディとスン・イーはその後結婚し、女の子二人を養子に取っている<ref>{{
== 作品 ==
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* [[教授のおかしな妄想殺人]] ''Irrational Man'' (2015年) - 脚本・監督
* [[カフェ・ソサエティ]] ''Café Society'' (2016年) - 脚本・監督
* [[ウディ・アレンの
== 作品書籍 ==
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*多くの映画作品が地元のニューヨーク、特に[[マンハッタン]]周辺を舞台としていることで知られている。しかし、初の[[ヨーロッパ]]ロケを敢行した『世界中がアイ・ラヴ・ユー』以降は、海外を舞台とした作品も少ないものの存在する。
*[[フランス]]など[[英語圏]]以外の外国での評価も高く、そのことをストーリー内に組み込んだ『さよなら、さよならハリウッド』など、海外での興行成績の方が高い作品も存在する。[[カンヌ国際映画祭]]では44回も上映されている。
*日本では、1982年
== 参照 ==
{{
== 外部リンク ==
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あれん うてい}}
[[Category:アメリカ合衆国の
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]
[[Category:アメリカ合衆国の脚本家]]
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