「国生さゆり」の版間の差分

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この当時について、「ソロで出れるのか、グループで出れるのか、それとも出れないのか、とてもピリピリしていた。」「先にソロデビューを果たしている新田恵利や河合その子を応援したいという気持ちと嫉妬心とが入り混じり、女の子ならではのとても複雑な気持ちで見ていた。」と振り返っている。
 
おニャン子クラブがブームとなった[[1986年]]に入るとようやく角を現し、[[2月1日]]に、国生さゆりwithおニャン子クラブ(国生のサブボーカルとして、[[白石麻子]]・[[渡辺美奈代]]がつく)名義のもと『[[バレンタイン・キッス]]』でソロデビュー。同曲は約30万枚のヒットとなり、現在でも[[バレンタインデー|バレンタイン]]シーズンには[[バレンタインデー関連楽曲一覧|定番の曲]]となっている。しかし、おニャン子クラブ関連の曲がオリコン1位が当たり前だった状況の中で最高位2位という結果に甘んじる。新田や河合は1位を獲得しているだけに「二人には負けたくなかった」と、当時の悔しい心境を語っている。
 
ソロデビューに合わせて『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブのスタッフらは、国生を積極的に推すようになり、歌手活動以外にも『[[スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説]]』へのメインゲスト出演や、『[[月曜ドラマランド]]』などおニャン子クラブ主体のドラマにも主役格で出演させるようになり、瞬く間に中心メンバーへと躍り出た。さらに、[[カネボウ化粧品|カネボウ]]秋のキャンペーンガールに選ばれるなどの<!--おニャン子のなかで突出した-->活躍をみせた。この頃から「芯の強さ・気の強さ」を前面に出すようになり、おニャン子クラブのリーダーとしてのイメージも定着してゆく。国生の[[親衛隊 (アイドル)|親衛隊]]は[[つなぎ]]姿の若者が多かった<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/46693/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載20〉]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35686/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉下]</ref>。
 
リーダーとして後輩の指導にも積極的に関わっていたが、ソロデビュー以降は「年下のメンバーの子たちの中に、自分から入ってはいかなかった」という。<!--それに加えて持ち前の「体育会系」気質からか、-->渡辺美奈代などは後に「さゆりちゃんが苦手だった」と発言している(そうとわかる発言をしている)。国生が挙げる仲の良かったメンバーは福永恵規、[[樹原亜紀]]、[[名越美香]]、[[城之内早苗]]など、自身が「おとな組」と称する面々。(新田との確執に関して「私はプロ意識のない人は嫌いです」と、暗におニャン子内に派閥が存在していることを認める発言をしているが、樹原や名越は芸能界での成功を目指していたわけではなかった。)特に同い年で、同じく就職を取り止めておニャン子入りした福永のことは「東京に来てはじめてできた友達」と表現している。([[新田恵利#新田派・国生派]]の頁参照)