「ハルク・ホーガン」の版間の差分

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=== WWF時代 ===
[[1983年]]12月、シニアの後継者となる[[ビンス・マクマホン|ビンス・マクマホン・ジュニア]]にWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす(AWA社長のバーン・ガニアはこの突然の引き抜き事件に激怒したという)。翌[[1984年]]1月23日、MSGにおいて[[コシロ・バジリ|アイアン・シーク]]を下し[[WWE世界ヘビー級王座|WWF世界ヘビー級王座]]初戴冠。2月10日には[[NWA (プロレス)|NWA]]の総本山だった[[セントルイス]]の[[キール・オーディトリアム]]にて、[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]を相手に初防衛に成功。以降、同年より開始された全米侵攻サーキットにおいて、[[ポール・オーンドーフ]]、[[ビッグ・ジョン・スタッド]]、[[デビッド・シュルツ]]、[[ロディ・パイパー]]、[[ボブ・オートン・ジュニア|カウボーイ・ボブ・オートン]]ら強豪との防衛戦が各地で行われた<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=bios&wrestler=39&bild=1&details=7&liga=3&jahr=1984|title=The WWE matches fought by Hulk Hogan in 1984|accessdate=2014-09-12|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。
 
[[シンディ・ローパー]]らと共に[[MTV]]に出演するようになると、その圧倒的なカリスマ性と単純だが分かり易い試合でプロレスファン以外の層にまで人気が爆発していった。[[1985年]]3月31日に[[レッスルマニア]]の[[レッスルマニア (1985)|第1回大会]]が開催されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得した。このレッスルマニアという名称自体「レッスル」とハルクファンの「'''ハルカマニア'''(''Hulkamania'')」を足したホーガンのための大会だった。以降も[[カマラ (プロレスラー)|カマラ]]や[[キングコング・バンディ]]などの巨漢ヒールから元NWA世界王者の[[テリー・ファンク]]や[[ハーリー・レイス]]までを挑戦者に迎えてタイトルを防衛。人気絶頂期に行われた[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]との対決([[1987年]]3月29日、[[レッスルマニアIII]])では9万3173人という観客動員数を記録している。その後もWWF世界王者として活躍し、[[ベビーフェイス (プロレス)#フェイスターン|フェイスターン]]した旧敵のロディ・パイパー、ポール・オーンドーフ、[[ドン・ムラコ]]らとタッグを組むこともあった。
 
[[1988年]]2月5日の "[[:en:WWF The Main Event|WWF The Main Event]]" におけるアンドレ・ザ・ジャイアントとの防衛戦において、3カウント前に肩を上げたもののフォール負けを取られてタイトルを失うが、その後もホーガンの人気は衰えず、同年3月27日の[[レッスルマニアIV]]での新WWF世界王者決定戦では、前年にフェイスターンしていた[[ランディ・サベージ]]の王座戴冠をアシストした。以後、サベージと「'''メガ・パワーズ'''(''The Mega-Powers'')」なるタッグチームを結成し、アンドレ&[[テッド・デビアス]]のメガ・バックスや[[レイ・トレイラー|ビッグ・ボスマン]]&[[ワンマン・ギャング|アキーム]]のツイン・タワーズなどと抗争するが仲間割れ。[[1989年]]4月2日の[[レッスルマニアV]]において、再びヒールとなったサベージを破り、WWF世界王者に返り咲いた。
 
その後、さまざまな低予算映画に主演し俳優としても活躍した。