「シュヴァイトニッツ包囲戦 (七年戦争)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
105行目:
爆弾は9月1日に爆発し、長さ94フィート、広さ26フィートの大穴が開き、プロイセン軍にすぐに占領された。プロイセン軍は要塞から撃たれた砲火から身を守るために、占領範囲を拡大しようとしたが、5日には一旦撤退せざるを得なかった。しかしオーストリア軍にも問題がおき、7日には火薬の使用を制限した。これはプロイセン軍に有利だったが、雨が降り続けたため爆弾で開いた大穴に水が溜まり、穴に身を隠せなかったプロイセン兵士が大損害を出す結果となった。9月10日、もう1つのログハウスが爆発したが、前進しようとしたプロイセンの包囲軍に対しオーストリア軍は爆弾で押し返した。 このため、プロイセン軍は爆弾をもう1つ準備し、今度は16日に爆発して長さ60フィート、広さ15フィートの穴を開けた。プロイセン軍はヤウアーリンガー砦からの激しい砲撃に晒されつつ、2つの穴を繋げる道を築き、足場の確保に成功した。21日、フリードリヒ2世は別の砦に放火してオーストリア軍の目を逸らすことを命令、作戦に失敗したルフェーブルを更迭、また大本営を{{仮リンク|ピエシツェ|en|Pieszyce|label=ペーテルスヴァルダウ}}({{lang|de|Peterswaldau}}、現ポーランド領ピエシツェ)から{{仮リンク|ヴィトショフ・ゴルニ|en|Witoszów Górny|label=ベーゲンドルフ}}({{lang|de|Bögendorf}}、現ポーランド領ヴィトショフ・ゴルニ)へ移動した。その後数日間、プロイセン軍は砦に接近するために爆弾を何度も爆発させた。10月8日、ヤウアーリンガー砦の火薬庫が爆発して、プロイセン軍のフォン・モルトケ中隊とザクセン=ゴータ・ウムス・レーベン中隊によりオーストリア軍が200人の損害を出した。同日、プロイセン軍の爆弾が再び爆発、砦に甚大な損害を与えた。
 
ここにきてプロイセン軍の{{仮リンク|爆破 (軍事)|en|Mining (military)|label=爆破坑道術}}の成功が明らかになり、オーストリア軍の指揮官{{仮リンク|フランツ・フォン・グアスコ|de|Franz Guasco}}は10月9日に降伏、残ったオーストリア軍9千人とともに捕虜になった。包囲中、オーストリア軍では士官80人と兵士2,947人が死亡した。
{{Clear}}