「上杉治憲」の版間の差分

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概要
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*米沢藩[[中興の祖]]である鷹山は、現在の[[米沢市]]民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「'''鷹山公'''」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。
*{{要出典範囲|date=2012年7月|当時、米沢藩で奸臣と見なされていた[[直江兼続]]}}の200回忌法要に香華料を捧げたという。このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると、鷹山が兼続を再評価したとされ、鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた。
*江戸時代の大名は隠居後にはほとんどが江戸屋敷で暮らしたが、上杉家では隠居生活を米沢で送るのが慣例であった。{{要出典範囲|date=2017年5月|近年の研究では、治憲の30歳代での隠居は参勤交代を気にせずに改革に専念する理由もあったからという考察がある。}}なお、幕府は諸大名が隠居後に領国に定住するのは好まないというのが建前であったが、上杉家では常々、脚痛治療のための長期間の湯治の名目で幕府老中に届出を出していた(幕閣もわかった上で許可を出している)。
*藩主の称号は謙信以来の'''御屋形様'''であり、隠居した先代は'''大殿様'''であった。治憲は早くに隠居したため先代の重定が健在であり、'''中殿様'''と呼ばれている。
*[[天明]]7年([[1787年]])8月に実父の[[秋月種美]]の危篤の報を受け江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。