「三枝昌貞」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Dieyabo (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
32行目:
その後は奉行衆や武田氏の[[御料所]]の代官などを務めている。昌貞関係文書において、信玄は昌貞への加増を躊躇している文言が認められ、『寛永伝』に記される信玄の勘気を被ったとする逸話には一定の信憑性が認められている<ref name="maru">丸島(2011)</ref>。また、昌貞関係文書は信玄直筆のものも多く含まれ、内容も叱責など信玄の感情的側面が記されている一方で、昌貞は武田家に順調に加増されていることが指摘され、信玄と昌貞の親近性を反映しているとも考えられている<ref name="maru"/>。
 
永禄8年([[1565年]])10月に武田家では信玄嫡男義信による謀反事件が発生しているがおり([[武田義信#義信事件|義信事件]])、これを受けて翌永禄9年8月には武田家臣が信玄への忠誠を誓う[[起請文]]を信濃国[[生島足島神社]]へ奉納しているが(「下之郷起請文」)、永禄9年8月の起請文では[[長坂昌国]](源五郎)、矢島義房、佐藤民部少輔らとともに昌の名が見られる<ref>なお、この際の[[取次]]は山県昌景が務めている。</ref>。武田家ではさらに翌永禄10年8月にも起請文の徴収を行っており昌貞はこの際も再び起請文の提出を行っており、昌貞が義信に近い立場であった可能性も考えられている<ref name="maru"/>。
 
永禄11年([[1568年]])の駿河今川領への侵攻([[駿河侵攻]])に際しては父の虎吉が駿河[[田中城]]の城将などを務めていることが確認されるが、『甲陽軍鑑』によれば信玄は同じく信玄近習の真田昌幸や曽根昌世とともに昌貞の存在を重視し、昌貞は[[花沢城]]攻めで一番槍の武功を立てたことにより信玄から[[感状]]を受け、山県昌景からは名刀「吉光」を与えられたとい逸話を記している。なお、永禄11年推定の「武田信玄陣立書」([[山梨県立博物館]]所蔵)においては、昌貞は弓衆を率いる立場として記されている。