「三枝昌貞」の版間の差分
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その後は奉行衆や武田氏の[[御料所]]の代官などを務めている。昌貞関係文書において、信玄は昌貞への加増を躊躇している文言が認められ、『寛永伝』に記される信玄の勘気を被ったとする逸話には一定の信憑性が認められている<ref name="maru">丸島(2011)</ref>。また、昌貞関係文書は信玄直筆のものも多く含まれ、内容も叱責など信玄の感情的側面が記されている一方で、昌貞は武田家に順調に加増されていることが指摘され、信玄と昌貞の親近性を反映しているとも考えられている<ref name="maru"/>。
永禄8年([[1565年]])10月に武田家では信玄嫡男義信による謀反事件が発生して
永禄11年([[1568年]])の駿河今川領への侵攻([[駿河侵攻]])に際しては父の虎吉が駿河[[田中城]]の城将などを務めていることが確認されるが、『甲陽軍鑑』によれば信玄は同じく信玄近習の真田昌幸や曽根昌世とともに昌貞の存在を重視し、昌貞は[[花沢城]]攻めで一番槍の武功を立てたことにより信玄から[[感状]]を受け、山県昌景からは名刀「吉光」を与えられたとい逸話を記している。なお、永禄11年推定の「武田信玄陣立書」([[山梨県立博物館]]所蔵)においては、昌貞は弓衆を率いる立場として記されている。
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