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交渉が不調に終わった結果近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦する。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。当時の野球協約68条第2項には、「全保留選手は、他の球団と選手契約にかんする交渉を行ない、または他の球団のために試合あるいは合同練習等、全ての野球活動をすることは禁止される」 となっていたが、任意引退前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、メジャー球団と契約することが可能になった(その後、任意引退による日本人選手の流出に危機感を感じたNPB側が1999年に協約を改正し、「外国のいかなるプロフェッショナル野球組織の球団をも含め」という条文を追加したため、現在では日本のみならずメジャー球団を含め、任意引退した選手は世界各国のプロ野球球団と契約することが出来なくなった)。なお、近鉄は2004年にオリックスと合併したため、保有権はオリックスに移行したと解釈されている。
 
=== ドジャース新人投手時代から移籍 ===
{{by|1995年}}[[2月8日]]に[[ロサンゼルス・ドジャース]]とマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。野茂が渡米した当時のMLBは前年([[1994年]])からの[[1994年から1995年のMLBストライキ|長期ストライキ]]で1995年シーズンの開始が1ヶ月近く遅れていたものの、[[5月2日]]の[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]戦でメジャーデビューを果たし、[[村上雅則]]以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。[[6月2日]]の[[ニューヨーク・メッツ]]戦でメジャー初勝利を挙げ、14日の[[ピッツバーグ・パイレーツ]]戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。29日の[[コロラド・ロッキーズ]]戦までで[[サンディ・コーファックス]]を抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月は[[ピッチャー・オブ・ザ・マンス]]を獲得し、50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残す。前半戦を13試合の登板で6勝1敗・防御率1.99・WHIP1.07の好成績で折り返し、[[1995年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に初選出されて先発投手を務め、2イニングを1安打無失点に抑えた。8月10日には自身が先発した試合が[[没収試合]]になりメジャーリーグで没収試合を経験した初の日本人ともなった。
後半戦も15試合の登板で7勝5敗・防御率3.03・WHIP1.03の成績を残し、シーズン通算で13勝6敗、[[グレッグ・マダックス]]に次ぐリーグ2位の防御率2.54・236奪三振、リーグ最多の3完封を記録して[[最多奪三振 (MLB)|最多奪三振]]のタイトルを獲得し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献。日米で『'''NOMOマニア'''』という言葉が生まれる程の人気を誇った。[[シンシナティ・レッズ]]との[[1995年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第3戦に先発したが、6回途中5失点で降板して敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退した。[[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|ルーキー・オブ・ザ・イヤー]]の投票では[[チッパー・ジョーンズ]]を抑えて受賞し、[[サイ・ヤング賞]]の投票でも4位に入った。
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{{by|1996年}}の[[スプリングトレーニング]]中に3年430万ドルで契約を延長。[[4月13日]]の[[フロリダ・マーリンズ]]戦ではコーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利を挙げた。[[7月5日]]のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球でNPB/MLB通算100勝を達成。[[9月1日]]の[[フィラデルフィア・フィリーズ]]戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。17日のロッキーズ戦では雨で試合開始が2時間遅れたが、途中3回からトルネードを封印しセットポジションに終始した投球で[[ノーヒットノーラン|ノーヒッター]]を達成した。高地で空気が薄いためスタミナの消耗が早く、球場が広くない上にボールも飛びやすい「打者天国」として知られる[[クアーズ・フィールド]]での達成者は、2015年時点で野茂のみ(現在はボールを湿らせることで飛ばないようにしているが、野茂の記録達成時に雨でボールが湿っていたことにヒントを得たという)であり、「完全試合より価値がある」と報道したメディアもあった。また同月の[[ピッチャー・オブ・ザ・マンス]]を獲得した。後半戦は15試合の登板で7勝4敗・防御率2.84・WHIP1.10と好調を維持し、最終的にチーム最多の16勝をマークした。チームは[[サンディエゴ・パドレス]]と地区優勝を争い、1ゲーム差で敗れたが[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]を獲得。[[アトランタ・ブレーブス]]との[[1996年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第3戦に先発したが、4回途中5失点と力を発揮できずに敗戦投手となり、チームも前年に続き3連敗で敗退した。
 
{{by|1997年}}[[4月25日]]のマーリンズ戦では、[[ドワイト・グッデン]]の記録を更新してメジャー史上最速となる444回2/3での500奪三振を達成。[[8月28日]]の[[オークランド・アスレチックス]]戦でもグッデンに続きメジャー史上2人目となる新人年から3年連続の200奪三振を達成した。前半戦は18試合の登板で8勝7敗・防御率3.81・WHIP1.27の成績で折り返すが、[[7月26日]]のフィリーズ戦で打球を右肘に受けて退場、打撲と診断される。[[故障者リスト]]入りすることなく復帰したが、後半戦は15試合の登板で6勝5敗・防御率4.81・WHIP1.50と不調に陥る。[[9月14日]]の[[アストロドーム]]での[[ヒューストン・アストロズ]]戦以降はトルネード投法を封印し、前年のノーヒットノーラン達成試合以来となる終始セットポジションからの投球に切り替えたが相手3番[[ジェフ・バグウェル]]に初回裏先制ソロアーチ2ラン浴び7回を奪三振11も勝敗付かず降板。最終的にリーグ4位の奪三振数を記録するも、チームはポストシーズン進出を逃す。オフには6月から張りがあったという右肘の遊離軟骨除去手術を受けた。
 
{{by|1998年}}は例年よりも1ヶ月早くロサンゼルス入りし、トレーニングを開始。スプリングトレーニングでは球速が91mph(約146km/h)まで回復するなど球威はあったが制球が悪く、計21回を投げ自責点19と開幕に不安を残した。[[4月3日]]のレッズ戦ではメジャー自己最多となる7連続奪三振を記録したが、18日の[[シカゴ・カブス]]戦では2/3回を8失点で降板。メジャー通算100先発となった28日の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦の7回には'''日本人メジャーリーガー初本塁打'''を記録し通算45勝目をマークするも、[[5月9日]]のマーリンズ戦では右手中指の[[爪#美容文化としての爪|フェイクネイル]]の圧迫による痛みを訴え、途中降板。5月まで12試合の登板で2勝7敗・防御率5.05・WHIP1.40と不調。