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'''小山 知一'''(こやま ちいち、[[1893年]]([[明治]]26年)[[7月17日]] - 没年不明)は、日本の[[官僚]]。[[佐賀県庁|佐賀県]][[都道府知事|知事]]、[[高知県庁|高]]知事、[[文部省]]普通学務局長を歴任した。
 
== 生涯 ==
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;経歴
官歴前半は[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[警部]]、同保安部保安課長、[[愛知県警察部]][[特別高等警察|特高]]課長などの警察関係。その後[[福岡県庁|福岡県]]内務部社会課長、[[高知県庁|高知県]]学務部長、 [[岩手県庁|岩手県]]経済部長などを歴任<ref name=a></ref><ref name=b>『日本の歴代知事』1001頁</ref>。{{要出典範囲|date=2012年8月17日|岩手県在任中には、国民健康保険課長の[[石原幹市郎]]を説得し、[[国民健康保険]]制度では全国でも他に例を見ない、農林水産省所管の産業組合代行による、国保事業の運営を奨励する。}}[[1937年]] 、第32代[[佐賀県]][[都道府県知事|知事]]に就任。{{要出典範囲|date=2012年8月17日|知事として愛国行進の先頭に立つなど、当時の世相を反映し軍事色の強い活動なども行う。また、当時の文部省が推進する[[教学練成]]の方針のもと、1938年3月には佐賀県学務部に軍事援護課を設置するが、これは後任知事の人事にも大きな影響を与えた。}}
[[1939年]](昭和14年)には [[文部省]]普通学務局長に就任し、同年[[12月]]、第35代高知県知事に転じた。戦後は[[公職追放]]となり<ref>『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』222頁。</ref>、[[弁護士]]を務める。
;人物
佐賀県知事時代には「非常時タンク知事」の異名があった<ref name=b></ref>。妻は[[関東都督府]]軍医部長を務めた[[野口詮太郎]]の長女、鶴子<ref name=a></ref>。[[日本不動産銀行]]初代頭取[[星野喜代治]]、[[日本育英会]]理事長[[水野敏雄]]は中学時代の同級生である。
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*『大衆人事録 東京篇』第13版、1939年。
*福島県立会津高等学校同窓会員名簿、1960年。
*[[秦郁彦]]編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』[[東京大学出版会]]、2001年。
==外部リンク==
*[http://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E8%A9%AE%E5%A4%AA%E9%83%8E コトバンク 野口詮太郎]
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[[Category:佐賀県知事]]
[[Category:高知県知事]]
[[Category:公職追放者]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:福島県出身の人物]]
[[Category:1893年生]]
[[Category:20世紀年不明]]