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==掲載された逸話==
*豊臣秀吉が[[御伽衆]]に、「いかに面白くても腰から下の話([[下ネタ]])を禁ずる」と告げたところ、[[細川幽斎]]が「祇園の茶屋で[[クスノキ]]でできた釜を見た」という咄をした。これに秀吉が「それでは(釜の)尻が焼けてしまう」と答えてしまったという話{{sfn|土井大介|2008|p=340-341}}。
*山中鹿介([[山中幸盛]])の逸話がいくつか存在する。[[尼子晴久]]の末子としている一方で、500300程度の兵を抱えた一種の[[傭兵]]として描かれている{{sfn|土井大介|2008|p=343-344}}。
*織田信長がいかに仕えるに値しないかを列挙した「鹿島源吾左衛門が事」、信長が[[座頭]]に「御智恵は一皮なり」と指摘される「座頭が事」、無理な命令を通そうとした「人の妻女を押して取ること」などの逸話があり、器量に欠ける暴君や仏敵として評価されている{{sfn|土井大介|2008|p=340}}。
*[[果心居士]]という術者が評判になっていたことが紹介されている。果心居士が薪能を見物しようとしたが、人が多くて見えないため、自分の顔を大きくして人垣の上から見ようとした話{{sfn|続史籍集覧 第7冊|1912|p=109-110}}、借金取りに出会ったときに顔を変えて逃れたという話{{sfn|続史籍集覧 第7冊|1912|p=111}}、戸田出羽という兵法家が弟子とともに座敷の中にいる果心居士を討ち取ろうとしたが、果心居士は誰にも気づかれずに消えていた。驚いて人々が探していると、突然座敷の中に現れていたという話が掲載されている{{sfn|続史籍集覧 第7冊|1912|p=112-113}}。