「山中幸盛」の版間の差分

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:幸盛の勇力は抜群であり、才智にも長けていた。当時の人は幸盛を「'''[[楠木正成]]より勝る'''」と言って褒めたたえた。そのため、七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた<ref name="genkouroku"/>。
:主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1,000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた<ref name="genkouroku"/>。
;『[[義残後覚]]』
:江戸時代初期に成立したこの逸話集では、幸盛は[[尼子晴久]]の末子であり、器量・容貌他の人と異なる猛将に育ったとされる{{sfn|土井大介|2008|p=343-344}}。ただし、侍は渡り者という思想の持ち主で、尼子家再興にかけるという描写は一切無く、上月城落城の際にも毛利方につこうとしている{{sfn|土井大介 |2008|p=345}}。これを小早川隆景が「表裏の侍」「今日は敵、明日は味方となりて弓箭の本意を背く武士」として処刑を主張したために殺害されたとしている{{sfn|土井大介 |2008|p=344-345}}。
 
== 人物・逸話 ==
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;『[[太閤記]]』(幼少期)
:普通の子供とは容姿が違っていて、眼光がすぐれ、手足も太く逞しかった。幼いながらもその立ち振る舞いは、たいそうきっぱりしていて、不敵にすらあった<ref name="shikanosukeden"/>。
;『[[義残後覚]]』
:手足の節々にひとつかみずつ毛が生えていた{{sfn|土井大介|2008|p=344}}。
;『[[雲陽軍実記]]』(19歳 、品川将員との一騎討ちの時)
:背丈は5尺あまりと見えて中肉で色白く、容貌がすぐれた男であった<ref name="jikki4-3">『[[雲陽軍実記]]』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より</ref>。
;『[[名将言行録]]』(34歳、死亡時)
:幸盛は討ち取られたとき、たいへん立派な髭を生やしていた。その髭は、針先のように鋭く尖って非常に堅く、障子を突くと簡単に貫くほどであった<ref name="genkouroku"/>。
 
 
=== 鎧冑の姿 ===
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*妹尾豊三郎『詩文に表れた月山と幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ9』(ハーベスト出版、1976年) ISBN 978-4-938184-11-7
* {{Cite book|和書 |author = [[依田武勝]]|year = 2010|title = 山中鹿之助 - 歴史新発掘 - 川中島合戦の落し子の生涯|publisher = 叢文社|isbn = 978-4-7947-0648-5|ref = {{SfnRef|依田}}}}
*{{Cite journal |和書|author = 土井大介 |title =山中鹿介異聞 : 『義残後覚』に見る「戦国咄」のありかた |date = 2008 |publisher =慶應義塾大学藝文学会
|url=http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00950001-0339 |journal =藝文研究 |volume = 95 |ref =harv }}
 
== 関連項目 ==