「斉藤巧」の版間の差分
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|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = [[内野手]]
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1975}}
|ドラフト順位 = ドラフト4位
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|経歴補足 =
* オリックス・ブルーウェーブ (1992 - 1998)
* [[鹿児島ドリームウェーブ|鹿児島ホワイトウェーブ]]
}}
'''斉藤 巧'''(さいとう こう、[[1957年]][[11月25日]] - )は、[[兵庫県]][[南あわじ市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]・[[捕手]])。右投げ右打ち。
== 来歴・人物 ==
[[兵庫県立洲本実業高等学校|洲本実業高]]から、{{by|1975年}}の[[1975年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]で[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]から4位指名を受け入団。
[[兵庫県立洲本実業高等学校|洲本実業]]から[[1976年]]に[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]に入団。強打の大型内野手として期待され、[[1981年]]には主に[[二塁手]]、[[三塁手]]として49試合に先発出場を果たす。しかし[[基満男]]・[[フェリックス・ミヤーン]]・[[田代富雄]]・[[山下大輔]]ら内野陣の選手層が厚かったためレギュラーには定着できず、[[1983年]]に[[レオン・リー]]との[[トレード]]で[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に移籍した。▼
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[[1985年]]に捕手に転向。プロ野球で捕手から野手へのコンバート例は多いが、その逆は極めて珍しいケースである([[別部捷夫]]、[[鈴木伸良]]等の例がある)。[[袴田英利]]の控え捕手として起用されたが、[[1986年]]には20試合に先発マスクを被り、[[一塁手]]、[[指名打者]]としても45試合に先発出場。同年は打率.288、6本塁打の好記録を残すが、やはり守備に難があり年間最多捕逸を記録した。[[1989年]]は1本塁打を放っているが、主にスタメンマスクを被っていた袴田と[[福澤洋一]]がともに0本塁打に終わったため、チームの捕手としては唯一の本塁打を記録したこととなった(なお、[[マイク・ディアズ]]はこの年は捕手で出場していない)。▼
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その後、[[1991年]]に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]に移り、同年引退。引退後はオリックスのコーチ(1992年二軍コーチ補佐、1993年~1994年一軍バッテリーコーチ、1995年~1998年二軍バッテリーコーチ)や[[マスターズリーグ]]の[[福岡ドンタクズ]]などで活躍。少年野球講座などにも参加。現在なら地元から近い[[南あわじ市]]にある「淡路島うずしお温泉 うめ丸」に勤務<ref>[[テレビ東京]]系『[[ドラGO!]]』[[2016年]][[7月31日]]放送より</ref>{{出典無効|date=2017-03-30}}。▼
▲その後、
現在は地元から近い[[南あわじ市]]にある「淡路島うずしお温泉 うめ丸」に勤務<ref>[[テレビ東京]]系『[[ドラGO!]]』[[2016年]][[7月31日]]放送より</ref>{{出典無効|date=2017-03-30}}。
== 詳細情報 ==
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* '''57''' (1991年)
* '''87''' (1992年 - 1998年)
== 脚注 ==▼
{{Reflist}}▼
== 関連項目 ==
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* [[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]]
* [[オリックス・バファローズの選手一覧]]
▲== 脚注 ==
▲{{Reflist}}
{{大洋ホエールズ1975年ドラフト指名選手}}
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