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[[太平洋戦争]]敗戦後のアナキストは寧ろプルードンの立場に近く、実力での資本主義制度を打倒よりも地域コミュニティ再建の実現を目指していた。戦後のアナキズムはアナルコ・サンディカリズム系の[[日本アナキスト連盟]]と、純正アナキズム系の[[日本アナキスト・クラブ]]が啓蒙的活動を続けていたが、ほとんど影響力はなく、アナキズムは死んだに等しいと見なされていた。
 
そのようなアナキズムが蘇ったのは[[1968年]]から[[1970年]]にかけての全国的な[[学生運動|学園闘争]]においてである。学園闘争の中心となった[[全学共闘会議]](全共闘)の多くはノンセクトであり、日大全共闘芸術学部闘争委員会(後期)などのように、旗やヘルメットを黒色とする組織も多く、またそのその組織形態もアナキズムに多い自由な評議会的なものであったことから、アナキズムへの関心が芽生えることになった。東京のアナキストは連盟の後継の要素を引き摺り、学習会的・サロン的色彩を払拭出来ず([[麦社]])、それ以外もテロリスト的な小結社主義([[現代思潮新社|東京行動戦線]]、[[背叛社]])の域を出なかったが、関西・大阪のアナキストは、小組織・小グループの傾向を離脱して[[アナキスト革命連合]](ARF、アナ革連)という「アナキスト・ブント」とあだ名された統一組織を形成し、各大学や地域において強力な運動を展開した。関西の主要大学にはアナキスト連合の組織や支部が形成され、キャンパスにはアナキストの[[黒旗]]が翻り、一部では完全にマルクス主義者を凌駕していた。[[1974年]]から[[1975年]]にかけて[[連続企業爆破事件]]を起こした[[東アジア反日武装戦線]]はアナキズム傾向がある組織だった<ref>『でもわたしには戦が待っている—斎藤和(東アジア反日武装戦線大地の牙)の軌跡』「第1章 東京行動戦線から東アジア反日武装戦線へ」、東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃と闘う支援連絡会議編 、風塵社、2004年</ref>。
 
戦後のアナキストとしては、詩人の[[秋山清]]や、後に右翼の立場性を鮮明にする評論家[[大澤正道]]らがおり啓蒙的著述を続けていたが、その後、[[向井孝]]は自身のミニコミ紙で非暴力直接行動論を粘り強く持論とし、フランスにいた[[尾関弘]]は[[ダニエル・ゲラン]]の翻訳を行った。またアナキスト革命連合の活動家だった[[千坂恭二]]は『[[情況]]』や『[[映画批評]]』誌などでバクーニンの思想をベースにブント的アナキズムを精力的に展開し<ref>千坂恭二『歴史からの黙示』(田畑書店。1973年)</ref>、[[大島英三郎]]は黒色戦線社を設立し[[八太舟三]]の純正アナキズムの普及に努めた。