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'''後小松天皇'''(ごこまつてんのう、[[天授 (日本)|天授]]3年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[1377年]][[8月1日]]) - [[永享]]5年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]([[1433年]][[12月1日]]))は、[[室町時代]][[北朝 (日本)|北朝]]最後の第6代、歴代第100代の[[天皇]](在位:[[弘和]]2年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]([[1382年]][[5月24日]]) - 応永19年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]([[1412年]][[10月5日]]))。[[諱]]は'''幹仁'''(もとひと)。
 
== 略歴生涯 ==
[[日野資教]]邸で養育される。弘和2年([[1382年]])12月28日、父の[[後円融天皇]]の[[譲位]]を受けて6歳で[[即位]]、[[後円融天皇|後円融上皇]]による[[院政]]が行われた。[[朝廷]]内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの[[公家]]を主従関係の下に置いた[[室町幕府]]3代将軍[[足利義満]]と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。[[明徳]]4年([[1393年]])に後円融上皇が[[崩御]]すると、義満はさらに[[朝廷]]への影響を強め、事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた
 
[[明徳]]4年([[1393年]])に後円融上皇が[[崩御]]すると、義満はさらに[[朝廷]]への影響を強め、事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた。
 
応永19年([[1412年]])[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]、後小松は皇子の実仁親王([[称光天皇]])に[[譲位]]し、[[院政]]を開始。これは明徳3年([[1392年]])の[[南北朝合一]]の際の条件である[[両統迭立]]に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。
 
[[治天の君]]としての後小松の立場については様々な見方がある。例えば、応永27年(1420年)9月16日に以前女官との密通を理由に仙洞御所から追放された院侍が復帰を求めて仙洞御所に侵入して警固に当たっていた[[細川氏]]の兵に捕らえられ、翌日[[六条河原]]で斬首された事件が発生している(『康富記』・『看聞日記』)。この事件について、[[横井清]]は後小松を「いかなる[[暴力装置]]も駆使できなくなっていた」存在と解釈<ref>横井『看聞日記』そしえて、1973年、p69。</ref>、一方で[[井原今朝男]]は逮捕の命令を発したのは後小松であること、将軍義持が院侍の助命を主張しても後小松だけは一貫して院侍の殺害を主張して遂には実現させたことを指摘して公家社会、特に御所内においては幕府権力を単なる暴力装置として駆使させることが出来る程の権力を依然として保持していたと解釈している<ref>井原『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、p213p213-243。</ref>している
 
称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子[[小川宮]]も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍[[足利義持]]と協議、後継者として崇光流の[[伏見宮貞成親王]]が有力視され、一時は後小松の[[猶子]]として[[親王宣下]]された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は[[出家]]して皇位継承を断念した。[[正長]]元年([[1428年]])にいよいよ称光が危篤となると、6代将軍[[足利義教]]の仲介で貞成の子息彦仁を[[猶子]]とし、[[後花園天皇]]として[[即位]]させた。
 
[[正長]]元年([[1428年]])、称光が危篤となると、6代将軍[[足利義教]]の仲介もあって、その死後に貞成の子息彦仁を[[猶子]]とし、[[後花園天皇]]として[[即位]]させた<ref>「後花園天皇」『朝日日本歴史人物事典』</ref>。
 
[[称光天皇|称光]]・[[後花園天皇|後花園]]の2代にわたり[[院政]]を行い、この間[[永享]]3年([[1431年]])に[[出家]]している。ただし、後小松が永享元年(1429年)10月に出家の意思を固めていたものの、義教に事前の断りを入れなかったことから義教の反発で先送りされた経緯があり、この時の義教の後小松への反感が貞成親王との関係強化につながり、後に後小松の遺志に反する貞成への太上天皇称号贈与につながったとする見方もある<ref>石原比位呂「足利義教と北朝天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6</ref>。
 
永享5年([[1433年]])[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]に[[崩御]]。宝算57。
 
== 追号 ==
追号は本人の遺詔により「後小松院」と贈られた。「小松帝」とは、兄の孫にあたる[[陽成天皇]]が廃位されたのち皇位につき、その子孫が長きにわたって皇統を保った第58代[[光孝天皇]]の異名である。南朝の皇統を断つかたちで天下唯一の天皇となったのもつかの間、自らの皇統はわずか2代にしてさらに別の系統に移ることが現実となったとき、彼はこの「後小松」を追号にすることによって自らの歴代天皇としての正統性を顕示しようとしたものと考えられている。また後小松は、称光天皇の容態が思わしくなかった[[1426年]]に『[[本朝皇胤紹運録]]』の編纂を命じて皇室の系図の整理を行わせているが、この行動も彼のそうした心境の反映だと考えられている。
 
== 系譜 ==
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=== 系図 ===
{{皇室南北朝}}
 
== 略歴 ==
[[日野資教]]邸で養育される。弘和2年([[1382年]])12月28日、父の[[後円融天皇]]の[[譲位]]を受けて6歳で[[即位]]、[[後円融天皇|後円融上皇]]による[[院政]]が行われた。[[朝廷]]内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの[[公家]]を主従関係の下に置いた[[室町幕府]]3代将軍[[足利義満]]と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。[[明徳]]4年([[1393年]])に後円融上皇が[[崩御]]すると、義満はさらに[[朝廷]]への影響を強め、事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた。
 
応永19年([[1412年]])[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]、後小松は皇子の実仁親王([[称光天皇]])に[[譲位]]し、[[院政]]を開始。これは明徳3年([[1392年]])の[[南北朝合一]]の際の条件である[[両統迭立]]に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。
 
[[治天の君]]としての後小松の立場については様々な見方がある。例えば、応永27年(1420年)9月16日に以前女官との密通を理由に仙洞御所から追放された院侍が復帰を求めて仙洞御所に侵入して警固に当たっていた[[細川氏]]の兵に捕らえられ、翌日[[六条河原]]で斬首された事件が発生している(『康富記』・『看聞日記』)。この事件について、[[横井清]]は後小松を「いかなる[[暴力装置]]も駆使できなくなっていた」存在と解釈<ref>横井『看聞日記』そしえて、1973年、p69。</ref>し、一方で[[井原今朝男]]は逮捕の命令を発したのは後小松であること、将軍義持が院侍の助命を主張しても後小松だけは一貫して院侍の殺害を主張して遂には実現させたことを指摘して公家社会、特に御所内においては幕府権力を単なる暴力装置として駆使させることが出来る程の権力を依然として保持していたと解釈<ref>井原『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、p213-243。</ref>している。
 
称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子[[小川宮]]も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍[[足利義持]]と協議、後継者として崇光流の[[伏見宮貞成親王]]が有力視され、一時は後小松の[[猶子]]として[[親王宣下]]された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は[[出家]]して皇位継承を断念した。[[正長]]元年([[1428年]])にいよいよ称光が危篤となると、6代将軍[[足利義教]]の仲介で貞成の子息彦仁を[[猶子]]とし、[[後花園天皇]]として[[即位]]させた。
 
[[称光天皇|称光]]・[[後花園天皇|後花園]]の2代にわたり[[院政]]を行い、この間[[永享]]3年([[1431年]])に[[出家]]している。ただし、後小松が永享元年(1429年)10月に出家の意思を固めていたものの、義教に事前の断りを入れなかったことから義教の反発で先送りされた経緯があり、この時の義教の後小松への反感が貞成親王との関係強化につながり、後に後小松の遺志に反する貞成への太上天皇称号贈与につながったとする見方もある<ref>石原比位呂「足利義教と北朝天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6</ref>。
 
永享5年([[1433年]])[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]に[[崩御]]。宝算57。
 
== 追号 ==
追号は本人の遺詔により「後小松院」と贈られた。「小松帝」とは、兄の孫にあたる[[陽成天皇]]が廃位されたのち皇位につき、その子孫が長きにわたって皇統を保った第58代[[光孝天皇]]の異名である。南朝の皇統を断つかたちで天下唯一の天皇となったのもつかの間、自らの皇統はわずか2代にしてさらに別の系統に移ることが現実となったとき、彼はこの「後小松」を追号にすることによって自らの歴代天皇としての正統性を顕示しようとしたものと考えられている。また後小松は、称光天皇の容態が思わしくなかった[[1426年]]に『[[本朝皇胤紹運録]]』の編纂を命じて皇室の系図の整理を行わせているが、この行動も彼のそうした心境の反映だと考えられている。
 
== 在位中の元号 ==