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| 人名 = コンラート
| 各国語表記 = Konrad
| 君主号 = ドイツローマ王<br>イタリア王
| 画像 = Conrad_II_of_Italy.jpg
| 画像サイズ =
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| 母親 = [[ベルタ・ディ・サヴォイア]]
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'''ドイツローマ王およびイタリア王コンラート'''(Konrad, [[1074年]][[2月12日]] - [[1101年]][[7月27日]])は[[ロレーヌ公|下ロートリンゲン公]](在位:1076年 - 1089年)、[[ローマ王|ドイツ王]](父と共治、在位:1087年 - 1098年)、イタリア王(父と共治、在位:1093年 - 1098年)。[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の次男。母親は[[サヴォイア伯国|サヴォイア伯]][[オッドーネ・ディ・サヴォイア|オッドーネ]]の娘ベルタ。
 
== 生涯 ==
父ハインリヒ4世の長男は早世しており、コンラートは実質的な長子として育ち、1075年末にゴスラーで開かれた宮廷会議において次期国王に定められている。1076年、下ロートリンゲン公[[ゴットフリート4世 (下ロートリンゲン公)|ゴットフリート4世]]が死去した後に、父皇帝より下ロートリンゲン公とされた。1077年1月、父ハインリヒ4世は、聖職叙任権を巡って争った[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]に破門解除を願うためカノッサ城に赴いたが(「[[カノッサの屈辱]]」)、当時2歳のコンラートも母ベルタとともに同行している。1087年5月30日、コンラートは[[アーヘン]]にてドイツローマ王として戴冠された。1093年、コンラートは父皇帝と敵対関係にある教皇側のトスカーナ女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ|マティルデ]]からカノッサに招待されたが、その時にマティルデに説得され、コンラートは父皇帝から離反し改革的な教皇[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]側についた。そして同年、モンツァの大聖堂にてミラノ大司教よりイタリア王冠(ロンバルディアの鉄冠)を受けた。皇妃エウプラシアも義子コンラートのいるカノッサ城へと出奔、皇帝に叛いた。しかし、コンラートは皇帝を称したものの、領土も収入も居城もなく、しばらくは各地の領主の城を転々としていたが、ようやくボルゴ・サンドンニーノ城に落ち着いた。1095年4月、教皇ウルバヌス2世がクレモナを訪れた際にはコンラートが出迎えたが、その時、父皇帝も教皇に恭順の意を示し、これに対して教皇は聖職叙任権を皇帝が放棄するかわりに皇帝位のコンラートへの継承を約束した。しかし、1098年、皇帝ハインリヒ4世はマインツで帝国会議を開催し、コンラートのドイツローマ王、イタリア王位を剥奪し、三男ハインリヒ(後の[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]])に王位が与えられた。後に、コンラートは父皇帝に叛いたことを後悔したが、1101年フィレンツェで没した。
 
1093年に、教皇ウルバヌス2世の仲立ちにより[[シチリア]]伯[[ルッジェーロ1世]]の娘コンスタンツェと結婚したが、二人の間に子はなかった。