「武蔵野台地」の版間の差分

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武蔵野台地は、その成因から、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫層が互層しており、この層面から地下水が湧き出し、台地上の中小河川の源流となっていることが多い。台地上に見られる池の多くがこのような成因である。また地名として「清水」を冠していることが多く、さらに、大きな神社や寺社が境内として取り込んだり、名家や武家の庭園になっていた例もある。これらの河川によって武蔵野台地の東部は[[開析]]が進んでいて谷が鹿の角のように入り組み、多数の舌状台地が武蔵野台地から削りだされている。
 
これらの台地にはそれぞれ名前がつけられており、'''[[久が原]]台'''、'''[[田園調布]]台'''、'''[[目黒 (東京都)|目黒]]台'''、'''[[淀橋]]台'''、'''[[豊島 (東京都北区)|豊島]]台'''、'''[[本郷 (文京区)|本郷]]台'''、'''[[成増]]台'''といった呼称が行われるほか、より細かい区分を行うこともある。たとえば[[陣内秀信]]は都心部について、[[上野]]台地、[[本郷]]台地、[[小石川]][[目白]]台地、[[牛込]]台地、[[四谷]][[麹町]]台地、[[赤坂]][[麻布]]台地、[[]][[白金台]]地の7台地を数えている<ref>『東京の空間人類学』 陣内秀信 筑摩書房 1992年</ref>。
 
武蔵野台地は湧水によって水利が得やすく、また沖積低地のような洪水も避けることができるため、古来から人口は多かったと思われ、多摩川の崖線には古墳時代の古墳や遺跡が多数残されている。武蔵野台地の東端にあたる淀橋台に地の利を見出したのが[[太田道灌]]であった。道灌が築城した[[江戸城]]([[皇居]])は、平川と[[目黒川]]の間を広くカバーする淀橋台の最東端に置かれ、道灌につづいて江戸に入った[[徳川家康]]もまた台地を囲む[[圏谷]]を掘割に利用するなど、地形を巧みに利用している。これらの台地先端は、東側の沖積低地や東京湾岸から見ると、独立した山のように形容され、江戸期までに「忍ケ岡(上野山の古名)」「[[愛宕山]]」「紅葉山(現・皇居吹上御所付近)」「[[城南五山]]」などと呼ばれ、実際に武蔵野台地は[[上野駅]]の西側で15m以上の標高差を見せる崖となって終わる。